小児医療の活動についてのインタビュー記事(2019年7月)

茨城県つくば市にある子育て支援拠点「ままとーん」前代表で、はぐラボ代表・中井聖さんにお願いした、昨年のインタビュー記事です。2019年なので、団体の活動最終コーナーを回ったところ、の昨年の過去記事ではありますが、よかったらお読みくださいませ!

(大変気持ちの良いテラスで行われた、インタビュー)

■「知る楽しみ、知り合う喜び」

 私が阿真京子さんと初めてお会いしたのは、「家庭看護力醸成セミナー」という少し堅い響きのイベントでした。小児医療の課題について語るパネリストとして同じ席に着き、阿真さんは小児医療について発信してこられた専門家として、私は地域の子育て支援に携わるひとりとして、同じ親という立場ではありましたがそれぞれ異なる視点で発表しました。
 大勢の医療の専門家を前に臆することなく、真剣にそして朗らかにお話しされる姿がとても印象的でした。
 診てもらうのが自分自身であれ、我が子であれ、一人のお医者さんに対しても少々緊張してしまう私には、阿真さんの姿がまぶしく映ったものです。

 今回、その阿真さんにインタビューをする機会をいただき、その輝きの源に何があるかを感じることができました。それは、阿真さんが代表を務める「一般社団法人知ろう小児医療 守ろう子ども達の会」のホームページに掲げられている言葉、『知る楽しみ、知り合う喜び』です。
 阿真さんの活動は親が一方的に医療者を批判したり、訴えたりするものではなく、軽やかな好奇心、そして温かな気持ちの交感がベースにあります。だからこそ広がりをもって形を成そうとしている、その取り組みについて紹介していきたいと思います。


■「救われない命」への想い

 子どもの病気について、親が学べる場をつくりたい。阿真さんがそう思うようになったのは、親として直面した我が子の病気がきっかけでした。

 それは、ひとり目のお子さんが生後9ヶ月の時。

 夫婦でラーメン店を営みながら、子育てを楽しんでいたという阿真さん。お子さんは生後4ヶ月から保育園に通い始め、その「事件」は園の運動会の翌日に起こりました。
 それまで大きな病気もなく元気に育ってきたお子さんが発熱し、37度台の熱は夜には39度まであがり、突然けいれんを起こしたのです。
 40分以上おさまらないけいれんに駆けつけた病院では、「ケイレンジュウセキ」という聞いたことのない病名を告げられ、明日どうなるかも分からず、薬で意識の戻らないお子さんを残して自宅に帰されたのでした。

 昨日の運動会ではハイハイレースで一等賞だったのに、なぜこんなことに―。

 自宅に帰された夜、パソコンで「ケイレンジュウセキ(痙攣重積)」を調べる阿真さんの目に、手足や脳に後遺症の残った症例が画像とともに飛び込んできたそうです。
 それまで、障がいのことなど自分事として考えたことはなかったと前置きした上で、阿真さんはこう語りました。「私はそれを見て嘆くよりも先に、「たとえ障がいが残ったとしても、とにかく生きていてくれたなら…!」と強く思った」と。

 翌日病院に行ってみると、お医者さんや看護師さんの表情は昨夜とは打ってかわって明るくなっていたそうです。乳児によくある突発性発疹という病気だったことが分かり、お子さんはすぐに回復に向かいました。
 その後、お子さんは元気に成長し、現在は高校生とのこと。
 このできごとが、小児医療について知りたい!、伝えたい!という動機につながるのですが、「ひとりの親として、肝が据わったというか覚悟ができた」、そんな経験でもあったそうです。

 ひとりの親として、子どもの病気、子どもの命と向き合う、それ自体は決して珍しいことではないかもしれません。
 その経験を、小児医療の課題に対する稀有な活動に結びつけたのは、阿真さんの特異な才能のひとつ“想像力”でした。
 子どもの頃から空想するのが大好きだったという阿真さんは、自身に起きたその「事件」がよその家で起きたならと、繰り返し想像してしまうのだそうです。
 ウチはたまたま自宅の近くに消防署も病院もあって助かった、でもそうでなかったら…。同じ症状でも、助からない命がきっとある。 
 空想の中の追体験、架空の親子の不安や怖れを我が事のように感じる心が、「どこでも安心して子育てできる環境を」という強い思いに駆り立てていったのです。


■知りたい、そして伝えたい

 もともと新聞を読み比べたり、調べ物をしたりするのが好きだったという阿真さん。お子さんのけいれんを機に、医療について調べ始めました。時は2000年代、医師の過労死や医療事故が「医師不足」、「医療崩壊」としてメディアで大きく報じられていました。
 色々と調べていくうち、親の行動がそうした状況に拍車をかけている実態を知ることになります。けいれんが止まない我が子と一緒に駆け込んだ病院で目の当たりにした情景、夜中の待合室の状況が思い出されたと言います。

 子どもの具合が悪くなった時、どの程度で医師に診てもらうべきなのか。当時は判断の手がかりとなるような、親向けの情報はほとんど提供されていませんでした。緊急に治療を要する子どものために開いている休日夜間の病院も、不安に駆られた軽症児の親と子であふれていたのです。

 親も医師も、子どもの命を守りたいという気持ちは同じ。子どもの病気と家庭でのケアについて、救急のかかり方について親が学べる機会があれば、親の不安も医師の負担も和らぐはず―。
 阿真さんが、現在の会の前身である「知ろう!小児医療 守ろう!子ども達」という任意団体を立ち上げたのは2007年の4月。小児科医とともに保護者向けの講座を開催しながら、行政への働きかけも始めたのです。


■言葉に宿る重さ

 親が子どもの病気について学べる場を!と講座を自主開催しながらも、行政主導でそうした機会を提供できないか、地元の保健センター、東京都、厚生労働省と行脚し提案をしてまわったそうです。ところが、先方からは「素晴らしい取り組みですね。頑張ってください」、「管轄が違います」などと返され、なかなか距離が縮まらなかったそうです。一方で、社会情勢も絡み、活動の初年度から全国紙やNHKなどのメディアで取り上げられ、活動に共感し参画する仲間や医療者とのつながりは広がっていきました。やがて医師会のシンポジウムや行政の検討会などで、子育て当事者としての意見を求められるようになったのです。

 こうした進展には、阿真さんの言葉の「浸透力」が効いているような気がします。
 「自分が主張する時には、相手の話を2倍聴き、対話をするよう心がけています」。
 阿真さんの肉声に触れていると、発言の背景で立場の異なる人への想像力・共感力が常時フル稼働していることがうかがえます。発する言葉が相手にどう伝わり、受け止められるのか―。“二倍聴く”ことによる受容そして理解の過程が、心の深部に届く言葉の重さにつながっているのでしょう。その重さは、会議のその場では理解してもらえなかった医師が、後に会の支援者となったというようなエピソードからも感じることができます。
 知り合う、分かり合う喜びは「架け橋」としての活動を推し進める大きな力となっているのです。


■啓発は手間をかけて、ひとりひとりに届くように

 小児科医とともに企画開催してきた親向けの講座は160回を数え、その経験から自治体主催で開講するためのマニュアルも作成し、全国で活用され始めています。
 「啓発にはお金はかからないけど手間がかかるんです」。同じ額の予算を費やしても、開催日時や対象者への告知の仕方などに工夫が足りないと、せっかく場を設けても参加者が集まらない。そうしたすれ違いを埋めながら、小児科医が伝えたいこと、親が知りたいこと、双方の思いをつないでいく。そうした実践が、当初から目標としていた「自治体主催による、全国での講座展開」に向けて、道を拓いてきたのです。

 厚生労働省で「上手な医療のかかり方を広めるための懇談会」の第一回会議が開催されたのが2018年10月。懇談会の冒頭では、委員として出席した阿真さんによる「知ろう小児医療 守ろう子ども達の会」の活動紹介の時間が設けられました。
 「本当は、会を立ち上げて10年で目標を実現するつもりだったんです。ようやく、今年の秋には厚労省から全国の自治体に向けて、医療のかかり方の講座を設けるよう通達が出される予定です」。そう語る阿真さんの横顔は明るく穏やかでしたが、さらに先を想うような眼差しで話を続けました。

 「最初はお医者さんが疲れていて大変そうで、それを何とかしたくて会を始めました。その状況は少しずつ良くなっていると思います。でも、親の不安は変わらない。親へのアプローチは変わらず重要で、産婦人科での講座も始めています」。
 出産して初めて赤ちゃんに接するという親が多い現代、「赤ちゃんは泣くものですよ」と伝えることから始めるそうです。こうした、地域の医療者や支援者と直につながり、子どものケアについて学ぶ場が、初めての子育てに惑う人にどれだけ心強く、自分も親として成長できるという可能性に励まされるか、新たな試みに私も子育て支援に携わる一人として、大きな希望を感じました。


■共鳴し合う思い

 会を立ち上げて今年で12年。目標への道筋がようやく見えてきたという阿真さんに、なぜ活動を継続できたかをたずねました。
 「私は行動する、申請の書類を書くのはできるけど、過去を振り返る、計画を立てるのは苦手。仲間がいたから、続けてこられました」。何事もオープンに語る阿真さんが、協力者を得て、助け合い励まし合いながら活動を進めてこられたことは想像に難くありません。
 ただ、同じ親の立場で共感してくれた仲間だけでなく、会の発足時から小児科医や医療の問題に関心を持つ人々とのつながりを得られたのは、小児科医の故・中原利郎先生の存在があってのことでした。小児科医は天職と公言しながら、過重労働で1999年に自死された先生の事件を取り上げた「小児救急『悲しみの家族たち』の物語」という単行本に出会い、会の発足直前、阿真さんは本の末尾に記された「小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会」に手紙を送ったのだそうです。その後すぐに先生の奥様から返信が届き、支援する会のメーリングリストを通じて、講座への協力者が集まったとのことでした。
 「親も医師も、子どもの命を守りたいという気持ちは同じ」という先の言葉を思い返しながら、生死の境も超えて共鳴する思いの不思議さ、志の強さに改めて胸打たれました。
 子どもの命を守りたい、その強い思いは、これからも人の間で共鳴しながら、阿真さんの想像を超えて遠くへ、たくさんの人のもとへ届いていくのでしょう。(了)

これから、想像を超えて遠くへ、はるかにたくさんの人のもとへ、届いていったら嬉しいです。
中井さん、ありがとうございました。

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