見出し画像

終わっている人間

今更「なんのために生まれてきたんだろう」なんて悩むことはありません。それは10代に与えられた特権のようなもので、26にもなってしまった今となっては、私の有感するすべて、ひいては私が私の母親の胎内から生まれ落ちたことになんら意味などなく、ただ事象としてそれが起こったというだけだと、とっくに理解できてしまっているからです。

しかし、なぜ生まれたのかの無意味な問いと比較して、「なぜ産んだのか」と、さながらミュウツーの如く親に問うことはできます。
なぜ極貧な家庭にも関わらず子供を産んだのか、なぜCDを質屋に入れないとミルク代も賄えない状態で子育てをしようと思ったのか、なにを目的として、なにを考えて、なんの為に私を産もうと思ったのか。結局、絶縁の果てに子産みの事実すらなかったものにしようというのなら、なぜハナから当たり前の権利を行使したと言わんばかりに、第一子を設けたのか。そこに疑問を抱かざるを得ません。

だれが産んでくれと願ったでしょう。人々は言います「生きていればいいこともあるよ」「キミがこれまで感じてきた良いことがなかったことになってもいいの?」と。実に健全で、健康なお言葉です。人生で一度でも自分の存在が芥のように消えてなくなってはくれまいかと本気で願ったことのない、虚ろな響きをもっています。「生きていたらいいこともあるよ」、知っている。そんなことはとうの昔から理解している。この世に生きていて一つも良いことがなかった人間などそうそういないでしょう。いたとしても、まだ意識が芽生える前に夭折してしまうなど、そういった特殊な事情が絡まない限り、誰だってなにかにほれ込んで、誰かに愛されて、それくらいの経験はします。しかし、「生まれないこと」。あぁ、それはどんなに「良いこと」でしょうか。「生まれないこと」に比べたら、この世に溢れかえる「良いこと」など、すべて些末なものにすぎず、真に「良い」と言えるイベントは、そもそも「子産み」というイベントが発生しなかった、今は亡き、『生前』にしかありえません。

産まれなければ、どうということはない。そこには、『良い』も『悪い』も、なにもないのです。そこには、生の苦しみも、死の苦しみもない、四苦もなければ、一切皆苦ですらありえない。文字通り、そのまま、「なにもない」のです。「生きていればいいこともあるよ」、そうじゃない、この世に生まれ落ちたというそれ自体が耐え難いほど苦痛であると、なぜわからない。この世に生まれて、自意識が芽生え、有感しているというそれ自体が、苦しみであると。

そうすると、健全で健康な人たちはやり方を180度変え、次はこのように切り出します「だったらはよ死ねば?」。彼らは、愛をもって接しているようなフリをして、あまつさえ、この世を生きる亡者を救おうなどという素振りをみせておいて、結局のところ、持説の正しさを確認し、この世に迎合されていることを認識し、自分が『普通』で、普通になれたことに対する礼讃をやってみせたいだけなのです。だから、『普通』を信奉し、普通でないものは排斥する。この世に迎合されなかった者は、あの世に迎合してもらおうという論理です。この世は僕たちが治めますので、どうぞ皆様はあの世で快適にお寛ぎください、と。
お言葉に甘えて、だったら早く死んでみましょうか。しかし、死の苦痛は、生の苦痛に勝るとも劣らない。それは、生の苦痛を語る以上に、容易に、知られ得ると思います。そもそも、自分から死んだといってなんだというんでしょうか。どうせほっとけば80余年で息絶えるにも関わらず、わざわざ自らの手でたった数十年ぽっち時計の針を進めたところで、そこになんの意味があるのですか。もうどうしようもないほどの苦痛から逃げ出す唯一の手段としての自殺がそこにあるだけで、この、暗雲立ち込める、漠然とした、体に纏わりつくような生誕の憂鬱が、自死をもってして晴れることなどありえません。生まれちまった苦しみは、生まれてしまった限り続くのであって、これからもずっと私とともにあるのです。

私は、私の人生を肯定できたためしが一度としてありません。幼子の時分からなんのために生まれてきたのかを問い続け、そこに意味などないとわかったとき、ただ自分の持つ力で、死ぬまでこの世界を、まるで暇つぶしのように生きていくだけだとわかったとき、これまでにないリアリティをもって自分の持つ力というものが私の目の前に現れました。そこには『普通』にもなれず、かといって卑劣にも、悪漢にもなれない、ただ何者でもない、いうなら愚者があるだけでした。何者かになれる人は、きっと自分が死ぬことなど想像もしていないのです。朝起きて、自殺が現れなかったことなど一度たりともありません。いつも、選択肢としての自殺が、なにかの選択の背後に控えています。今日は何をしようかな?もういい加減死のうかな。20余年も生きたら、もう十分生きたほうだな。全ての決断に際して、自殺の可能性が浮上してきます。毎日、いや、毎分毎秒に、自殺の可能性がほのかに、しかし確かに可能性として突きつけられるのです。

死は、この世に存在するイベントの中で唯一絶対的なイベントです。それは、死は万人のもとに降り注ぐという性質と、死には偉いも悪いも、高級も低級もなく、ただ「無に至る」というシンプルな特性所以です。死んで、生まれてしまったという事実を除き、全てが無に還るのなら、果たして、私が私の人生で行うなにかに、意味はあるでしょうか。この厭世は非常に危険な道に違いありません。ここで意味などないと断定してしまえば、私の起こすすべての行いは徒労におわり、なにも成し遂げず、それどころか、何事も成そうとしない空虚な泥団子が出来上がります。健全で健康な彼らは、またもや持説を補強し、世界に迎合されていることを認識するために、新たな物差しを持ち出して「おもしろくない男やな」と一蹴します。「おもしろくない男」、そう、この世を「おもしろいこと」と「おもしろくないこと」に二分してよいのなら、なにも成さない厭世家は後者に分類され、健常人によって「おもしろくない男」の烙印を押されること必定です。しかし、普通な彼らは、自分が死ぬなど毛頭、考えもしていないのです。私はというと、今日死ぬ。今日死なずとも、明日死ぬ。明後日も、来年も、60年後にも。それどころか毎日、毎時間、毎分、毎秒死んでいるのです。選ばなかった『自殺』の選択肢の残骸がゴミ箱に溢れかえって、それでもなお自殺が自意識をもったあの瞬間から絶えず心の奥底から湧き続ける。そして自殺の無意味さを振り返っては、確かにそこに存在する選択肢を見て見ぬふりして、何者でもない一日を過ごすだけです。おそろしく正直に日記を書いてよいのなら、「今日は自殺しませんでした。」翌日は「今日も自殺しませんでした。」さらに「今日も・・・」。今日も自殺の選択肢を見て見ぬふりしました。毎日これの繰り返しです。私は、私の人生を肯定できたことなど一度としてありません。

いったい、人間というのは自分の人生を切り開く力というものを持ち合わせているものでしょうか。「俺は生まれも貧乏だが今では勉強して社会的に成功している、お前にできないはずがない」。自殺に見て見ぬふりして生きていればこの手の話はごまんと聞きます。あるいは上司から、あるいは酒の席で友人から、あるいはYouTubeの広告から、あるいはインターネットビジネスで大成功、勝ちまくりもてまくり。結構なことだと思います。毎秒死なない彼らは、この暇つぶしの人生を如何に謳歌するか、その甘美の病みつきになり、私の前に食いさしの果実を差し出します。しかし、どうしたってあなたは私ではないのです。あなたと私は違う母親の腹から産み落とされ、違う家庭で生き、違う思想を植え付けられ、違う病気に罹り、違う本を読み、違う映画を観て、違う人と交わり、違う物差しを使って生きているのです。そんな、違った『環境』すべてを取り払った先にある「人間の力」というものが如何ほどなのでしょうか。あなたに、それだけの人間の力はあるのでしょうか。またあるとするのなら、それが私にもあるのでしょうか。

なんのために生まれてと自問自答する無意味さの傍らに、一応の答えというか、綺麗事みたいなものもまた同時にあり得ます。曰く、私は『美しいもの』を見ていたいのです。美しいものを直観して、美しいものの中へ至り、自分を『美の囚人』として生きていく、そんな生き方を求めて止みません。しかし、厚かましくも恐れを知らない私は、というより人間は、一つを得たなら二つを求め、頂上に至ったならば、次なる山を求めずにはいられません。即ち、私に美を齎してくださった神の後光に満足していたはずが、いつからか神と供にあることを欲し、それどころか、あぁ、なんという厚かましさ、私は、神と合一しようとさえ考えてしまいます。あまりに美しい神の光をわが物にしようと、まるでバベルの塔で天に至ろうとした創世記の彼らのように、身の丈の程も考えずに天を目指さずにはいられないのです。
しかし、バベルの塔の結果を見ればわかるように、元来、終わっている人間が、何者かになれるはずなどないのです。終わっている人間は、何者になることも叶わず、それはつまるところ、何者かになるための素養がなく、可能性がないからこそ、『終わっている人間』に相成っているのです。美しきものに近づけば近づくほど、自分のクソさが浮き彫りになっていきます。美しきものに備わっているそれが、私においては圧倒的に欠如しており、または逆で、美しきものが気にも留めないようなこと、―あるいはそれは自殺の選択肢のようなものが―が、私においては過剰ともいえるほど重要だと思われ、どれだけ手を伸ばそうとも私が美しくなることはない。私の身体が、光を発することはない。神の光に照らされて、自らの身体を振り返り、そのクソさをただただ突きつけられる、それだけです。神は怒り、バベルの塔を壊してしまいますが、私の『美しきもの』においては、そのような暴挙には及びません。しかし、美しきものが黙っていても、この世界には許されず、彼らが正しくあるために、彼らの正義の保全のため、私の、バベルの塔は取り壊されるのです。

いったい、どうすれば私は、私の人生を肯定できたか。一つの道としては、軽率にも子産みを果たした両親から一言、「産んでしまってごめんなさい」と頭を下げて謝罪があれば、私の気も晴れるかもしれません。しかし、そんなことに意味がないと、同時に極めて冷静にわかってはいるのです。私はいつも冷静で、極めて理性的で、論理的なのです。いってしまえば、私は、私が賢すぎるがあまり、人生を肯定することが難しくなっているといっても、全く過言にはならないのです。しかし、一度得た知性をどのようにして捨て去るなどということができるでしょうか。

終わっている人間は、なんのために生まれたのか。そこに意味はない。しかし、綺麗事のような意味を見出すことはできる。健全で、健康な人たちが、正しく生きていくために、私たち終わっている人間は常に求められています。彼らがこの世で正しく生きていくために、私たち終わっている人間は彼らの正しさの補強のために在ることができる。そういった意味では、私たちは社会に迎合されている。あの世に迎合されることと、この世に迎合されることが表裏一体となって、極めて絶妙なバランスの上で私たちの人生は成り立っている。
しかし、そんな人生なんて。そんな人間なんて。僕は、僕の人生を肯定できたことが、ただの一度たりともありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?