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在る。

私にとって8月は
「目にみえないものへ思いを馳せる」ことをより意識する月でした。

特に今年は亡き母の初盆ということもあり、
いつもよりその想いが濃かったように思います。

目に見えないけれど「在る」もの。

ヨガで言うならば、呼吸、心・・・意識?!

そこに共通するものとして「気(プラーナ)」から想像してみます。

「気」という言葉を思い返してみると
気持ち、気配り、気配・・・など。

そもそも「気」のことをヨガでは「生命エネルギー」と言ったりしますが、簡単には言語化しきれないものの一つであると思っています。

近年は言葉も一層豊かになりました。
複雑化する様々な事柄をわかりやすく言語化することはとても大事なことです。

これは私の場合なのですが…
言語化する事で頭が先に限定づけてしまったり、なんとなくの言葉や、ふんわりとした言葉でうまくまとまってしまうと、その先を自分で考えるということを止めてしまったりしているなぁ…と。

「わかる」もまたしかり。

わかるってなんなんだろう。
自分がわかりたいから、誰かとわかり合いたいから言語化するのだけど、何かかけ離れていく感覚に言葉がピタリとせずモヤモヤしていました。

そんな時、大好きなアーティストのライブに行きました。

大好きなのだけど、そもそもなぜ惹かれ続けているのか、なかなか言語化できずにいたので、今回は「気」に触れたくて可能なかぎり近くへ行き、とにかく心を鎮め、集中しました。

ライブがはじまるまでのステージ前は、ぎゅうぎゅうに詰められたオイルサーディンみたいで、熱気と息苦しさがありつつも、それを上回る期待とワクワクのエネルギーでいっぱい。

私の周りでは同じようなお一人様が多いのか、誰も言葉を交わしてないけれど、意識はステージに注がれていて、オルガンが運ばれてくるだけで歓喜の声が湧く。

そんなじっとして待つ時間は40分くらいかな。暑い。でもふう〜っと時折冷たい風が額を通り抜けると応援されてる気分になって勝手に微笑んでしまう。
腰が痛くなってきた。足裏の感覚に意識を戻し、腰回りの力みを床に下ろそうと感覚のアンテナ修正していたら時はきた。

会場が暗くなり、音が鳴り、気配を感じた瞬間から胸は高なりご本人登場。
一気に空気と眼差しだけで「ビビッーー!」と私の深いところで言葉にならないものがとにかく揺さぶられる。何か感情というより、心が震え動く瞬間の、なんともいえない感覚のが大きい。

それは彼から派生された振動であり、小さな波からはじまって、想いによってさらに振動し、声になり、言葉になり、響いてくる。
さらに輝きとか、オーラといった光のようなものをまとい、波にのって細かい所まで浸透してきて、私の中の感覚をダイレクトに揺らしてくる感じ。

まさに共振の世界。
もうね、やっぱり言葉になりませんでした。

きっと彼自身が自分の中で一番最初に生まれる小さな感覚からを大事にしていて、そのあらわれの源泉みたいなところからちゃんと感じながら世界を見ているんだろうなという気が、眼差しに、仕草に、声に、言葉に、音に、空気に、間にあらわれていて、私自身が揺さぶられてしまうのです。

またその最初からまるっと全部感じきることが「ありのまま」というのかもしれないとふと思ったら、またふわぁ〜と温かいものが押し寄せてきて、だんだん目の奥が熱くなって、涙が溢れてきて言葉はもう浮かばず・・・
「在るという実感」だけが残るそんな時間を過ごしたのでした。

わかっちゃいましたが・・・・
言語化できないものを言語化するってかなかなチャレンジ。
それでも今回は言葉にしてみたかった。
言葉にしてみたら、それは意識的感覚とか質感のようなものでしかなかった。
でもだからこその気づきがあった。
強いて言うなら「在る」ということ。

善し悪しという判断に心が揺さぶられたり、葛藤することもあるけど、全ては経験という波がただ在るだけなのかもしれない、と。

人生は波。
上がったり、下がったり。
でもそれがあるから前に進むことができる。
そう思うと在ること自体が尊いと思える。

だからこそ、もっと感じることを大事にしながら、そこから繋がる感情や意識が生まれる源からまるっと体感することが生きているってことなのかもしれない。

体を持って生まれたからには、言葉を考える道具として有効に使いながら、言葉を越えた部分で「在る」をちゃんと実感して生きたい。

そう思った8月でしたので、9月はもっとリアルに肌で感じられるよう、モノ・コト・ヒトに触れ合いに行きたいと思います。

ありがとうございます(^^)