見出し画像

私のこと

前回の記事ではユウヤについて書かせていただきました。今回は、私についても、もう少し書いていきたいと思います。

母よりも祖母といた日々


私の家は両親が共働きで、幼い頃はほとんどの時間を母方の祖母と過ごしていました。祖母は同居していたので、両親がいない間はいつも一緒だったのです。

祖母は料理が上手なひとで、私はよく晩御飯の買い物についていったり、祖母が料理を作るようすを横で眺めたりしていました。

私が4歳のころ、母は仕事を辞めました。私としてはこれでようやく母と一緒の時間を過ごせると思ったのですが、そのささやかな願いが叶うことはありませんでした。

弟が生まれたのです。

そのせいでしょうか。私には母と遊んだ記憶があまりありません。もしかしたら、覚えていないだけかもしれないですけど……。

私が小学校の低学年の頃でしょうか。父がときどき、私に手を上げるようになりました。理由はたわいのないことばかりです。

よく覚えているのが、給食費を払い忘れたときのことです。

怒られると思った私は思わず「払った」とうそをついたのですが、それがランドセルから見つかり、ひどく叱られ、わりとひどく叩かれたのです。

小さな私にとって、大きく、力のある父の手は、恐怖でしかありませんでした。

圧倒的で、理不尽な力に組み敷かれ、私はものすごく憤っていました。

たしかに嘘をついた私は悪い。でもそれは、こんなに叩かれるほどのことなんだろうか……。

そう思いながら恐怖に耐えていたら、鼻に熱いものがこみ上げてきて、床にぽとりと落ちました。

鼻血です。

そのとき。私はこう思ったことをよく覚えています。

「やった。もう叩かれなくて済む」。

そして実際、父はようやく、私を叩くのをやめました。

母は私が叩かれているとき、父を止めるでもなく、ただそれを見ていたことをよく覚えています。

なぜ母は父を止めてくれないのか。私にはわかりませんでした。
もちろん、祖母も同じです。

ちなみにこうやって書くと、うちのがDV家庭だったかのように思われるかもしれません。でも、たぶん、そうではないと私は思っています。

昭和の家庭なら、こんなことはよくある話だったのです。

こういうことが何度か続いたある日、私の怒りは頂点に達しました。

もう二度と、父親と口をきかないと決めたのです。

私はそれから数カ月の間、父の姿を見ると逃げ回り、何を話しかけられても、ひと言も口をききませんでした。

それに対して父からまた怒られようと。です。

まぁ、子どもなので、しばらくしたら忘れ、また父と話すようにはなったのですが……。このときの、父を拒絶した明確な決意は、いまだにはっきりと覚えています。

数千万円の借金をつくり
自己破産した父

次に父に悩まされることになったのは、私が20代半ばの頃です。そのとき私は実家を離れ、会社勤めをしていました。その職場にある日、母から電話がかかってきたのです。

最近いろいろな金融機関から、父親宛に督促状が来ると。

嫌な予感がして、私は父にそのことについて確認しました。すると、

「〇〇(弟)の学費がちょっと足りなくて、少しだけ借りてるだけだ」とのこと。金額も、20万円程度だといいます。

しかし、後々わかるのですが、このとき父の借金は、驚くことに、2千万円ほどもあったのです。

それを知った私は、怒り心頭!

そこから、勤務先の提携弁護士に依頼し、ひとりで田舎の母を遠隔操作し、ガシガシと自己破産の手続きを進めることになります。

生まれ育った家は競売にかかり、車も売ることになりました。

引越すためのマンションを探し、私名義でローンを組み、引越しの手はずを整えたのは、母でした。

その間、父はまったくの戦力外。ただ黙って、私と母がやることを見ているだけでした。

引越しが住み、しばらくしたあと。新しいマンションで、祖母が転倒し、寝たきりになりました。

そしてそれからしばらくして祖母は亡くなり、

母は鬱を発症します。



もしかしたら。

あの頃から、私の中には、
父に怒り続けている小さな子がいたのかもしれません。

そしてその子は、なかなか私を見てくれなかった、お母さんを待つ子


でもありました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?