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金木犀

 ふわ、と甘い香りが鼻孔を擽った。それだけで普段と変わらない大学の構内が、何となく新鮮なように感じられた。
 晴れているせいで陽気は少し暑いぐらいなのだが、それを埋め合わせてあまりあるほどの涼やかな風が、心地好い。金木犀の香りに誘われるままふらふらと歩いていると、不意に軽く背中にかかる重みを感じて、私は立ち止まった。
「聖奈」
「紗夜、どうしたの?」
「見かけたから、つい」
 それを待っていたかのように、彼女は後ろから肩を抱くように腕を回しながら、私の名前を呼んだ。柔らかで心地の良い声、何故か抱きつきにくる悪癖の持ち主は、良く知っている。それにしても、彼女にはまだ授業があったのではないのだろうか。
「お休み、かな」
「もう。落としても知らないよ」
「いいの。それより聖奈を落としたら困るから」
 それを読んだような言葉には、多少ばかり呆れざるを得ない。毎日のように会っているのに、今さら落とすも何もないだろう。
 とにかく、ひとまず離してもらうには、彼女の希望に添う以外に手段はない。それにはやぶさかではないが、わざと他人行儀な言葉を選ぶ。
「それで、どこにエスコートすればいいのかしら? 紗夜様」
「どこかに、聖奈」
 意地悪だと解釈したのか、聖奈は剥れたようなため息を吐く。ただ一応は満足したようで、身体に回した腕を解いてみせる。いつものように、大雑把とも言えないオーダー。こちらが何も言いはしないのに、するりと腕を絡めて傍に縋る。全く変わりのない様子を傍目にどこへ連れて行ったものかと悩みはしたが、彼女の気まぐれと風の心地良さを前にして、そんなことを考えるのは止めにした。
 彼女の言うように、目的地は「どこか」で構わないのだ。飽きてしまえば別のオーダーを出すだろう、そうなるぐらいまでは時間を割いて構うまい。後は彼女と同じように、気の向くままに足を向ければいいのだ。
 体が触れるほど近くにいるのだが、聖奈は多くを話しはしない。ことさら機嫌が悪いということはなく、普段からそんな調子なのだ。時折、思い出したように会話が始まるのだが、一区切りがつけばしばらく静かにしている。内容もタイミングに劣らず、多様なものがあった。
 ある時は銀の融けてゆく温度、雨の落ちてくる速さについて。あるいはもっと世俗的に、学校近くにあるアイスクリーム店の、新しいフレーバーの話題であったりする。会話は先述の話題と共通点を持つこともあれば、本当に脈絡のないこともある。しかし、それが気に入らないと感じたことは一度もなかった。
 思うにこうして交わす言葉は、実利的な意思疎通の手段ではないからだろう。遊戯であるからには筋道立った意味を持つ必要はなく、より単純に反応を楽しむだけで構わない。紗夜との会話は、ごく気楽なものだった。
 今日も、その調子は変わらなかった。思いついたように、ふとした拍子で言葉を交わしあう。二言三言といった具合に終わることもあれば、穏やかに微笑みを零す。もっと端的にいじけたような言葉を返したと思えば、鈴の鳴るように澄んだ声で屈託なく笑いもする。移り気な様子は決して嫌ではなく、見ていて飽きなかった。
 彼女が言うに、明日は雨なのだという。そのせいか、しばらくすると抜けるような青い空の代わりに、厚い雲がいくつも湧き出して陽光を遮る。嘘のように汗が引いて、何とも言えず嫌な寒気が身体に走る。
「聖奈?」
 無意識に身震いしていたのか、紗夜が気遣うような言葉をかけてくれる。表面上は何でもない風を装ったが、上着を忘れてしまったことを恨めしく感じてしまう。
「ううん、何でもないよ」
 いや、よく考えれば、この寒さを紛らわせるのにちょうどいい手段が側にある。
「……紗夜、こっち」
「聖奈?」
 意図が分からず首を傾げる紗夜の手を引き、手近な出入り口から講義棟の建物に入る。既に授業中だから人の行き交いはないに等しく、私は目につかない袋小路へ誘う。
 普段のマイペースそのものな様子とは違って、珍しく戸惑ったような紗夜に構わず、私は自分より少し小柄な体躯を抱き寄せた。腕の中で服越しにも分かる柔らかな感触と、確かな温もりを堪能する。最初のうちは困惑からか落ち着かない様子だった紗夜も、しばらくすると背中へ腕を通してくれる。
「聖奈からなんて、珍しいね」
「寒く、なったから。いいでしょう?」
「もちろん」
 目を閉じて大人しく身体を委ねる紗夜に倣って、私も目を閉じる。静寂を乱すもののない、心地良い時間。
「紗夜、いい匂い」
「もう、そんなこと……」
 毎日のように顔を合わせて触れ合っていても、知らないこと、気づかないことはたくさんあった。
 そして何よりも、傍にいてくれる彼女が愛おしい。いつまでもとはいかなくても、せめてこのひとときを楽しみたかった。
「もう少しだけ、こうしていていい……?」
「うん。好きなだけ、抱きしめて」

(終)

 本文1965字。2017年に学園祭の部誌で初出。草稿自体はその前年からあったはずなのを、どうにか仕上げた記憶がうっすらと。
 金木犀の匂いは個人的に好きです。秋を象徴する匂い。

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