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利宇古宇の実(鬼と蛇 細川忠興とガラシャ夫人の物語 5)


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目次 鬼と蛇 細川忠興とガラシャ夫人の物語

前回のお話 第四話 「忠興生い立ち、または喧嘩上等・石合戦」



利宇古宇りうこうの実



鬼と蛇 細川忠興とガラシャ夫人の物語  005


 第五話  「利宇古宇りうこうの実」



「おのれももう、とおを越そうという年だ。申楽さるがく能を通しで見ておかねばな」

 それで熊千代は朝から機嫌が悪く、いやな顔をしているわけだ。今日は弓の練習をしようと思っていたらしい。

 元亀四年(1573)正月、藤孝は熊千代を連れて、小さな能興行を見に永寿庵へ出かけた。藤孝と同じ奉公衆である米田宗堅の息子で、米田こめだ助右衛門是政という。顔をゆるませて、熊千代に話しかけた。

「今日は、明智殿も来られまするぞ」

 熊千代はじろりとにらんだ。

 有吉と同い年で、熊千代よりも五歳年上の十五歳、意気盛んな少年だ。才走った松井、無口な有吉と並ぶと、どこからどう見ても平均的なのだが、そんな米田は今年、明智の姪を妻に迎えることになっている

 米田こめだ氏は、幕臣の中でも医術担当の一族で、秘伝の医術書を管理して将軍や武将たちの体調管理の面倒をみていた。明智も医術には造詣ぞうけいが深く、よく米田と意見を交わしている。明智は美濃で稲葉氏から習ったのだと言っていた。父の米田宗堅はなかなかの荒武者だが、息子の助右衛門は勇猛でありながらも、人を傷つけるよりは癒す方が好きなように見えた。

 その米田が嫁をもらう。
 熊千代が、うさん臭そうな顔をして尋ねている。

「助右衛門、嫁をもらうというのはそんなに嬉しいことなのか?」
「えっ?」

 米田は慌てて顔を撫でた。

「顔に出ておりましたか?出ておりました?」

 米田と明智は確かに親しいが、藤孝が聞いた所によると、数年前に義昭がすすめたのだという。

「どこがよい?女子おなごとは、それはそれは恐ろしいものだろう?」
「はあ、どうしてそう思われます?」
「母上はいつもほうきで打ち掛かってくるし、妹の伊也いやはちょっと押しのけただけで猛反撃してくる。この前は噛みつ……」
「よいか十兵衛殿はな、いま忙しいのだ。話もあるからおまえは邪魔をするでないぞ!」

 藤孝は慌てて話をさえぎった。

 嬉しそうだった米田助右衛門の顔がわずかに曇った。
 もう元服もすませ、初陣を控える身であれば、現在幕府が置かれている危機的状況もおぼろげながらわかっている。
 前年の九月に、信長が義昭に十七ヶ条の意見書を送っていさめてから、情勢はいよいよ逼迫ひっぱくしていた。もはや決裂したと言ってもいい。

 義昭の檄文げきぶんに応えたか、ついに武田が動き出し、十二月には三方ヶ原の戦いで、あの徳川家康が武田軍に散々に打ち破られていた。
 これで信長嫡男、信忠と信玄の娘、松姫の婚約も破談になったと聞く。

 もはや自分もはっきりと去就きょしゅうを決めねばならない。

──三淵みつぶちさまは決してご同意はなされぬ。

 今日は主に、明智との密談になるだろう。

 明智十兵衛は二年前に信長から近江五万石を拝領した時、義昭にいとま願いを提出している。ここまでの加増を受けてしまった以上、幕臣か織田家臣か、中途半端な態度は許されない。明智は自分なりのけじめをつけようとした。
 だが、義昭は拒否した。

 公方くぼうさまはまだ明智をあきらめきれないとみえる。

 信長が義昭に送り付けた喧嘩ごしのこまごまと重箱のすみあげつらう十七条の意見書には、明智の条項も含まれている。本当はこの意見書を書いたのは明智がきっかけだったのではないか。信長は、明智は自分の支配のもとにあると、義昭に誇示しようとでも言うのだろうか。

 近江五万石、いとま願い、十七条の意見書と、藤孝には、明智の両手を持って義昭と信長が引っ張り合いをしているように見えた。

 彼の意志、彼の存在がどこにあるかこそが、天下の去就を決めるかなめなのだとでも言いたげに。

 ぴりぴりした空気を察知したのか、熊千代も今日は少しおとなしかった。藤孝は、胸の不安を押しのけるように、今日行われる申楽さるがくの演目について説明をする。

「大江山と道成寺。これはな、鬼退治と蛇退治の話だ。蛇の方は調伏ちょうぶくして祈り込めるが、大江山はな、刀を抜き放って鬼と切った張ったをやる」

 藤孝はことさらに『刀』という所を強調してみせた。

 米田宗堅の息子に来てもらったのは、元服をひかえている有吉の代わりに熊千代のお目付けをしてもらうためだ。

 熊千代は相変わらず小柄だが、武道万端にすぐれ、武経七書ぶけいしちしょのような兵法書は、四書五経よりもはるかに進みが早かった。算術もさほど嫌がらない。いちどきょうが乗れば飲み込みは早かった。

 これは十兵衛の入れ知恵に違いない。兵法や兵站へいたんは武将にとって必須の知識なのだと、うまく乗せて説いたのだろう。

 こやつも少しは成長したのかもしれぬと、藤孝も淡い希望を持ち始めている。熊千代と言えど、とおにもなれば、元服、初陣、縁談と、あれこれ考えてやらねばならない年だ。

 それまでに、自分たちが生きていられればのことではあるが。

 だが、藤孝がひそかに危惧きぐしていたとおり、この日、熊千代が行儀よく能を見て終わるわけがなかった。



 騒然となった寺の庭に駆けつけると、ぽたぽた血の垂れる刀を握った熊千代が、仁王立ちになっている。

 目の前には熊千代の三倍ほどもある体格のよい少年が転がって、ものすごい悲鳴を上げていた。口を開けたままの米田が、地面をじっと見ている。

 耳が、落ちていた。

あなどりおって!」

 吐き捨てるように言い、懐紙かいしで血をぬぐって刀をおさめるまでが流れるようだ。とても子供の仕草しぐさとは思われない。動く相手の耳だけを狙って綺麗に切り落とすなど、至難しなんの業でもある。ここまで腕が上達していたと驚くより早く、藤孝はぞっとした。

 こやつ、人を斬ることに何の躊躇ちゅうちょもないのか。

 初陣もまだ経験していないのに、もう戦場いくさばに出て誰か殺したことがあるような顔をしている。

 熊千代は当初、ただ庭で綺麗な石を見つけてはかがんで拾っていただけだった。この少年は自分が美しいと見た物に対して執着が強いところがあった。
 米田が横にしゃがみ、こちらは自分の専門、草木について教えていた。

「薬用になる草木は皮を太陽に干して、よく乾燥させてから砕くのです。効くのを見ると、こちらも嬉しくなるものです」
「怪我にも聞くのか?」
「無論です。戦場ではよい薬を持っていることが勝敗の決め手になることもありまする」

 こんな会話を交わしながら、熊千代の鋭い目がやぶの中に何かを捉《とら》えた。
 思わず立ち上がりかけたとき、米田は熊千代の耳に口を寄せて囁いた。

「ここだけの話、敵が毒を使ってくる時などもありますゆえ」
「何?」

 熊千代も引き込まれた。

「薬の知識はとても大切でござるぞ」
「なるほど!」

 また二歩三歩、目の前の藪の中に、何かがするっと通る。
 白い。

 何だろう。あれは……。

 熊千代は目をらし、立ち上がって爪先立ちになってやぶのぞいた。
 見えるようで見えない。

 もう一度、首を伸ばして奧を覗き込んだとき、隣にいた米田があっと声をたてて前のめりに転んだ。
 背中から誰かがわざとのようにぶつかってきて、熊千代も転びそうになり、慌てて体勢を立て直す。

 数名のいかにも嫌な顔付きをした少年たちが背後にいる。
 どうやらそのうちの一人が背中を押したらしい。

「何をしている」
「へびだ」
「へびだと?」

 数名が後退あとずさった中で、大将格の少年は棒を振り上げて藪をめった打ちに叩いた。上に張り出した沙羅しゃらの樹(夏椿)の枝に当たり、葉がばらばらと雨のように散り注ぐ。

「蛇など打ち叩いてやれば出てくる。殴り殺してやればよい」
「何をする、やめろ!」

 熊千代は叫んだ。
 ちらっと視界に映っただけだったが、ぬめるうろこのきらめきがとても美しく見えた。
 米田が泥まみれのまま立ち上がって、熊千代の前にかばうように立った。さきほどまでとは別人のような威厳のある声を腹から出す。

「何者か、無礼をいたすな!」

 相手は米田を熊千代の近習と見たようだった。お供がひとりであるのと、熊千代の体格が小さく顔も可愛らしいのを見てひどく馬鹿にした顔をした。

 普段の激烈な性質を見慣れている家中かちゅうの者であれば、そんなばかなことはしなかったはずだ。また少し気の付く者ならば、その目の中に陰火のような火花が青白く散って危険を知らせているのに気づいただろう。

 似たような荒くれ者どもが数名、数を頼んでぐいぐい近づいてくるので、米田は囲まれてしまい、大将株は熊千代を突き飛ばそうとした。熊千代は素早くよけ、相手はすかしをくらって少しよろめき、激昂げっこうした。生意気なチビめ!

 相手の棒が肩先目掛けて振り下ろされるよりも早く、熊千代は思いっきり刀のさやを払ってつかを両手にしっかり握り、目を離さずに縦に振り下ろした。懐に飛び込んだので相手の額にある血管がぴくぴく動くのもはっきり見えた。鉄のけるような匂いが周囲に広がる。

 いつも腰に差していた脇差でなく、一つ大きな小太刀をと今日、渡されたばかりだった。

 相手はものすごい悲鳴を上げた。
 耳先だけを狙ったつもりが、相手の耳が横に突き出ていたためか、きれいに切り落としてしまい、血を噴き出しながら泥だらけで転げまわる。耳ぐらいなんだ、袈裟けさけにするには力が足りぬゆえ、その程度ですませたのだ。そう心に吐き捨てながら、熊千代は真っ白な顔をしていた。口を開けた米田たちが見たときの冷静さは表面のこと、内側は感情がさまざま煮えたぎり、心臓は激しく鳴っている。

 刀の斬り合いを見ることなどはじめてではなかったが、そのさまを他人が為したことではなく、自分と相手のこととして見たとき、目の前が真っ赤になって酔ったようになり、心の底からこのやられる相手になりたくないと思う。

 弱いものは、嫌いだ!

 「この、たわけ者が!」

 父の怒号が聞こえて、熊千代はあっという間に襟首えりくびを捕まえられていた。



 寺の中は大変な騒ぎになった。

「あいや、待たれよ」

 藤孝が熊千代を張り倒そうとした時、住職が玉甫和尚とともに現れて止めた。つかみあげた熊千代を降ろしたので、地面に足がつき手が離れた瞬間に、少年はあっという間に駆け出してしまう。

 米田は膝をつき、懐紙と布でやられた相手の頭を押さえている。叫びが消えた所を見ると、米田があて身をして気絶させたらしい。

「よいかずっときつく抑えておけ。それからこの薬を塗れ。医者は呼んだか」

 すっかり度肝を抜かれている仲間たちへ、きびきびと指示している。
 こんな時にも血止め用の紫根草を持っているあたり、さすがは米田家の息子だと、現実逃避をしたい藤孝は考えた。

 藤孝と玉甫ぎょくほ和尚は住職に手をついて謝った。
 医者を手配するよう云い付け、相手の素性を探すなど右往左往していたが、年取った住職は思いのほか落ち着いている。

「あれは徒党を頼んだ名うての乱暴者じゃ。このあたりではたちの悪さで知られておる。手を出したも向こうなれば、あまり頭ごなしに叱りすぎるもいけませぬ」

 藤孝は今日、能の囃方ばやしかたに入って得意の太鼓を打つことになっていた。
 くろうとはだしの腕前を明智に自慢しようとしていたのだが、もうとてもそんな気分にはなれない。
 確かにこのご時世で斬り合い、お手討ちなどそこら中に転がっていてめずらしくはない。
 だが熊千代は十歳。
 まだ十歳のはずなのだ……

「私も探してみましょうほどに、どうぞ、能見物をお続けくだされ」

 住職は振り返った。

「さて、そこに明智様もお見えですぞ」

 やがて、子供同士の喧嘩とわかって騒ぎも落ち着き、止まっていたお囃子はやしの音色が聞こえ始める。
 怪我人も連れ出されてあたりはまた静けさを取り戻していた。



 寺の年取った住職は、ゆっくりとあちこちを探した。

 年の功から、およそ何か不都合があった時に若者がたまりがちな西のすみに向かう。そこには、大陸から持ち帰られて植えられた灌木かんぼくが、この正月の冬の最中さなかに実をつけていた。利宇古宇りうこうの木と呼ばれている。中でもこの一本は特に珍しく、木の習性からしても冬に結実するなどと聞くのはこれだけだ。
 足を進めると、やはりいた。
 熊千代は土塀のそばの樹の下にぼんやりと立っていた。

 どうなされた、と声をかけると、やっとこちらを向いた。夢を見たような目をしている。口からは予想外の言葉が出た。

「へびを見た」
「ああ……」

 住職は、樹を見上げた。
 上から光が線状となって降り注いでいる。葉を通して輝くさまは緑がかった白いうろこを思わせた。

「時折、見かけまする」
「色が真っ白なのだ。あんなのがこの世におるのか」

 住職は微笑んだ。

「白蛇か。それは瑞兆ずいちょうにござりまするな」
「良いことなのか?」
「はい。人にも家にも、さちをもたらしまする」

 話を聞いているのかいないのか、返り血を浴びたままかれたような目で蛇のことを口にする少年に、住職は、あやかしにでも魅入られたのではないかと疑う。

「捕まえられるか?」
「さて、それは如何いかがであろう」

 熊千代はせがむように、袈裟けさはしを掴んでいた。

「美しかった。あんな美しいものはいずこでも見たことがない。おれはあれが欲しい。如何いかようにしたらよい?あれを持っていたい。触ってみたい。ずっとそばに置いていたい」

 いくら珍しかろうと、蛇に対してなことを言う。

 熱に浮かされたような言葉に、住職は不安を覚えたが、慰める気持ちもあって優しく答えた。

瑞兆ずいちょうを捕えましたる時にはな、傷つけることなきように大切にして、隠しておくことじゃ。ほら、ほこらのご神体は、しっかりと封をしておりまするじゃろ、人の目には触れさせぬようにするのが、ようございまするぞ」

 そういえば今日の能の演目は、何の因果か大江山と道成寺でござった。

 そう思ったとき、ふと熊千代の手が赤く染まっているように見えて、住職は目を開いた。怪我をしたのかと瞳をらしてみて、ほっとする。

 ああ、利宇古宇りうこうの実か。

 真っ赤な実が、指の間から血のようにしたたって見えたのだった。



 熊千代がへびを見た仔細《しさい》とはこうだ。

 藤孝に叱られ、すみに逃げ込んだ熊千代は泥を払い、血のりをこすった。しみはすでに茶色くなりかかっており、いくらやってみても取れなかった。この餓鬼がき(おれのことだ)は、書の一つを開く気もなく、学ぶ意思もなく、慮外者りょがいもので、乱暴者で、短慮たんりょはなはだしく、喧嘩だけ一人前の大悪党で、将来はろくな奴にならないらしい。

   うわの空なる月に行き
   雲のかよ、帰り来て

 能が始まったと見えて、うたいの声が朗々と響いている。

 藤孝が熊千代を見るたびに作る鬱陶うっとうしげな顔、見所のないやつと見る気配、その一つ一つに熊千代の心はひどく傷付いていたが、そんな自分を認められなかった。常に苛々と鬱屈うっくつした気持ちを持て余している。
 こつんと頭に何かが当たって、振り向くと庭の影に何かが見える。
 白い陶器のような細いものがするするっと見えて、また消えた。

 やっぱり、へびだ!
 熊千代は、涙を忘れた。
 張り飛ばされて赤く腫れていた頬も気にならなくなった。
 目に痛いほどのなめらかな白いものを追う。

 藪に逃げ込んであっちかと思えばこっち、静かになったかと思えば今度は後ろがガサガサと鳴る。

 追って、追って、追い続ける。

 小さな笑い声のようなものが聞こえた。

 しばらく無言のままで追いかけっこが続いたが、美しい幻か妖魔を追っているような錯覚に陥った。

 捕まえたい。よく見たい。
 夢中で追うが、向こうもとかげのように素早い。するりするりと木々の間、葉の影を抜けていく。

 思わず声を上げそうになったのは、見慣れない赤い実が鈴生りになった木のせいか、白い蛇を追いかけていたつもりが、そこには誰かが立っていた。
 熊千代には、見えた。白い美しいへびがゆっくりと地面から身体を起こしてみるみる大きくなり、赤い実が体にまとわりついて衣服となり、人型に変化していくさまを。

 幻覚か、夢か。

 目の前にいるのは、熊千代と背丈も同じなら歳も同じぐらいの少女だった。肩がわずかに上下している。
 樹に手を掛け、口を開けて息を切らしながら、木を見上げた。見たこともない樹木だ。こんな正月の冬の日に、見事に小さな実がいっぱいになっていた。

 少女がぱつんと実をもいで眺めるので、熊千代はあっと声を立てそうになる。

 寺の果実を勝手にもいでもよいものか。

 少女は構わずにかじる。真っ白な小さな歯が見えて光った。

 こちらをちらっと見た切れ長の目の上に細い眉が長からず短からず、柔らかそうな肌の上、美しさと冷たさが同居している。食べながらこちらをちらっと見ると、するすると近づいてきて、手が伸びてきた。

 びっくりするほど熱い手が頬をこする。
 熊千代はその手に血がついているのを見て、慌てて自分でも頬をこする。

 娘は持っていた実をぽいと無造作に捨てた。

い」

 それから別の実を吟味ぎんみすると、もう少し赤い実を今度は両手を開いて二つ、大胆につかみ、またぱつんと簡単にもいで、熊千代に差し出した。

 米田助右衛門が熊千代を探す声が、遠くで聞こえた。



 熊千代が住職に静かな訓戒を受けながら境内に戻ってきた頃、藤孝は、明智に愚痴とも言い訳ともつかない繰り言を漏らしていた。

「よい折なれば申楽さるがくを見せようと思うたのに、寺を血で汚すような騒ぎを起こしおる。あれの乱暴にわしは心底参っておる」
「すると何か。御嫡男は源頼光らいこうが酒呑童子に対して抜くよりも早く、みずから刀を抜いてしまったというわけでござるな」

 明智に付き添いをしている藤田伝吾でんごは、場を和《なご》ませようと大江山の粗筋あらすじにことよせて明るく言ってみたが、誰も何も答えない。むしろいっそう雰囲気は暗くなり、伝吾は横をむいて咳払いでごまかした。

 連れられてきた熊千代は、物陰から父たちが話しているのを見つめた。

「その勇猛さは、戦場では遺憾なく力を発揮されることでござろう」

 丁重で静かな話しぶり、相手は明智十兵衛光秀だ。

「まことにそう思っておるのか?十兵衛!」

 父が明智の前にこぶしを突くのが見えた。眉間みけんに青筋が立っている

「殺生をいとうおぬしの言葉とも思えぬ。我等われらの間で今更、取りつくろわずともよい。あたら血を流すことを好むのが、戦場で指揮を取り、家を采配するに相応ふさわしいか?見下げ果てた奴!」
「前線の兵はひとのからだを斬り、突いて戦いまする。大将がその心を知らずして、兵がついて参りましょうや」

 きっぱりとした口振りに迷いはなく、藤孝は困って拳を戻した。

「その覚悟でこの十兵衛も比叡山に向かい申した」

 弟の玉甫ぎょくほといい十兵衛といい、あの血なまぐさい小僧になぜこうも目をかけるのだろう。

 熊千代は、明智が真っ向から父に向かってかばってくれる心を感じて、そっと鼻をすすった。何一つ悪いことをしたと思っていない、何が悪いのかもわからないこの猛々しい少年の心に、明智の方から、普段、父母には感じられない甘さが漂ってくる。

 久しぶりに見た十兵衛は、織田家の重臣らしい重厚さが増していた。

 色白で細い切れ長の目に、熊千代は何かに似ていると思う。さっきのへびに懐かしさを感じたのはそれでだろうか。
 そして彼の後ろに鮮やかな紅色の丸い模様がちらっと動いた。

 熊千代は思わず声を上げそうになり、慌てて抑える。
 小さな影が走り寄って、十兵衛の背中に抱きつき、たしなめられて照れたように座ると、藤孝の前にきちんと手をついてお辞儀をした。

申楽さるがく能はいかがでありましたか」

 父が、わずかに腰を低めて問いかける。
 聞かれた相手は物怖ものおじを知らない、はっきりした声で答えた。

「たいそう美しゅう、見事なりと拝見いたしました」
こわうはございませんでしたか。それは豪胆ごうたんな」
「ねえ父上、鬼には鬼の子がいまするか?」

 藤孝と光秀は顔を見合わせた。
 先ほどの演目「大江山」のことかもしれない。源頼光が丹波で酒呑童子の鬼退治をするのだ。最澄に比叡山を追われた鬼は放浪のすえにこの地にたどり着いた。この話がもし、時の天下に対する敵対勢力の掃討を暗喩しているとすれば、確かにその鬼には眷属が、また家族がいたかもしれない

「いるかもしれぬな」

 藤孝は心中にため息をつく。この大江山の鬼退治、刀を振っての大立回りもあれば、鬼の首を掴んでこれぞと見せる場面もあり、熊千代もこれならば飽きないであろうと思っての親心だったのに。

「鬼が退治されれば、鬼の子はどうなりますか?泣きまするか?こんな、真っ赤な顔をして」

 娘が可愛らしい柔らかな顔を両手でつぶしてみせたので、大人たちはやっと相好そうごうを崩して笑った。



 父はまだ腹を立てていた。一言も声をかけず、帰り道にもさっさと先に行く。

 熊千代はぐずぐずして歩を遅らせた。

 米田助右衛門にうながされて顔を洗い、衣服を整えて明智に挨拶をしたとき、あの子はどこにもいなかった。

 入り口で馬に乗って去っていく明智の姿だけが見えた。
 馬の後ろに小さな手が回っている。

 ぎゅっとしがみついた手と、裾だけがのぞくその衣装の赤い模様は、たしかにさっきの実を渡した子に違いない。あの小袖の丸い手鞠模様が赤い実のように思えたのだ。

「たれか連れてきておる」

 熊千代は、何気ない風を装って米田に聞いた。

「明智殿の女御むすめごにございます。三女だそうですよ」
「名前は?」
「珠子殿と申されるそうな」

 米田は付け加えた。

「熊千代君と同じ年でございますよ」

 周囲が色めき立つほどの、たいそう美しい少女だった。

 能は一番、見終えてからきょうが薄れたらしく、立って庭にすとんと降りて行ったが、たれもみな、動きを止めて目であとを追っていた。

 あの美しい少女と遊べたかもしれないのに惜しいことをなさった、と米田は思ったが口に出して言うのはさけた。

「ふうん」
「あのう、熊千代君。今年はおそらく、うえかたへのお目通りも控えておりますから、自重せねばなりませぬよ。どこでも刀を抜いての喧嘩は御法度、きついおとがめを受けます。場合によっては切腹ですよ。よいですか」

 松井ならば反発したかもしれないが、米田助右衛門に対しては熊千代は素直にうなずいている。
 そのうえかたは、公方さまではなくおそらく信長となるのだろう。
 その時までに武田がたとの問題が片付いておらねば、熊千代君はいずれかの人質になるかもしれぬ。

 あの気性でか……。

 藤孝でなくとも不安になる。
 米田は松井ほど目が鋭いわけではなかったが、熊千代の様子が少しおかしいことに気付いていた。人を斬ったからだろうか。

 ものにかれたような目をしてござる。

 ともあれ、この日を境に、熊千代の日々のすべてが、塗り替えられたように一変して行くことになる。
 数か月でこうも世界が変わるとは、誰も予想できないことだった。

 砂利道を血を付けた服のまま歩いている、この荒々しい少年も、先を行く藤孝も、明智十兵衛、またその馬に揺られる小さな少女も、想像もしていない未来だった。




   第五話 終わり

次回のお話 第六話「上つ方への御挨拶」

目次 鬼と蛇 細川忠興とガラシャ夫人の物語


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