見出し画像

もったいな精神のすごさ

今回は、”もったいない” から日本文化、日本人の精神性の特徴について考察してみたい。

もったいない ー 私たち日本人には非常に馴染み深い言葉である。

戦後、物のない時代を経験した人であれば、誰でも”もったいない”は口酸っぱく聞かされた言葉に違いない。しかし、それ以前からずっと日本にはもったいない精神は深く根付いていた。

佛教協会から昭和2年に出版された、「佛教之精髄」という本がある。この小さな本の「経済思想」という章に、”もったいない”について触れているので紹介してみたい。表記がやや古い言い回しのため、私なりに現代風に一部言い換えてみた。

ーーー
王と禅僧の問答

むかし、王の皇妃が五百領もする高価な衣を高僧、阿難尊者にお布施した。これを聞いた王は、出家した者が五百領もの衣を受け取るとは、これまた随分と欲深いことではないかと驚き、阿難尊者に問うてみた。

「和尚よ、こんなにたくさんの衣を持ってそなたは一体どう扱っておるのか」
「はい。大王様。私は破れた衣を着ている弟子たちに分け与えます」
「その破れた衣はどうするのか」
「破れた衣で掛け布団を作ります」
「その掛け布団が古くなっただどうするのだ」
「枕カバーを作ります」
「枕カバーが古くなったらどうするのだ」
「敷物を作ります」
「その敷物が古くなったらどうするのだ」
「足拭きを作ります」
「足拭きが古くなったらどうするのだ」
「雑巾にいたします」
「雑巾が古くなったらどうするのだ」
「その雑巾を細かく散り散りにして、泥に混ぜ、壁の塗込みに用います」
「よろしい。大徳よ。佛弟子たちは物の利用の仕方をよく心得ていることが分かった」
王は、感じ入ってその場を去った。

ーーー
*土に還るまで使う

着物の再利用は江戸時代までは当たり前だった。大人用の着物は、子供用の着物となり、古くなればオムツになり、オムツが不要になれば雑巾となり、ボロ雑巾になれば、釜戸やお風呂の焚き火の焚き付けの燃料となり、最後灰になったら畑の肥料や、石鹸、陶器の釉薬など様々な用途に利用された。

ーーー
*けんちん汁
名前の由来は、建長寺がその発祥とされているからであるが、これについても、同本に述べられている。建長寺の雲水が、大根の尻尾や芋の皮、人参やごぼうの端が生ゴミとして棄てられてあるものを認め、丹念に拾い集めてよく洗い上げ、油で痛めてご馳走にし、時の武将北条時頼や時致らが参禅した際にお出しした。一旦はゴミとして捨てられたものをご馳走に昇華させたわけである。

*供養
日本では、供養するのは亡くなった方や祖先だけに限らない。針供養、筆供養など、身の回りで使っていた愛用品に対しても供養をする慣習がある。日本各地で行われている針供養では、折れたり、曲がったり、錆びたりして使えなくなった縫い針は柔らかい豆腐やこんにゃくに刺す。なんと優しい扱い方であろう。針供養は平安時代9世紀後半には行われていたという。


針供養


筆供養


「まだ使えるのにもったいない。」「食べ残したらもったいない。」「時間がもったいない。」私たちは”もったいない”を様々な場面で使う。ともすると”出し惜しみする”とか、”ケチケチした”といった躊躇するマイナスなイメージで捉える向きもあるだろうが、とんでもない。そこは見ている視座が天と地ほども違う。

本来の”もったいない”とは、物や事象の尊さを知っているところから発する心持ちを表す言葉なのだ。


ありがとうございます 合掌

私たち人間は自分以外の他からの恩恵無くしては生きていけない。”物を粗末にしない”ということは自分と関わる全てに感謝し敬意を払うという非常に高いレベルの意識だと思う。

江戸時代の特徴は、「ゴミが出ない社会であった」ことだという。当時、江戸の人口は百万人を超えていたと言われ、ロンドン、パリを上回る世界最大級の大都市だった。鎖国政策という事情もあり、資源の輸入はほぼゼロ。日々の暮らしに必要な物資のほとんどは、植物資源に依存していた。人々はあらゆる工夫を凝らして、なんでもとことん再利用した。身の回りの物は全て最大限活用し、化石燃料に頼らずとも生活する知恵と経験を養ってきた。人々はゴミをゴミと見ず、資源、もっと言えば宝物と見る実に素晴らしい感性を備えていた。その上、江戸時代の庶民はリサイクルや再利用をおしゃれだ、かわいい、素敵だと、楽しんでいた様だ。

環境分野でノーベル平和賞を受賞したアフリカ、ケニア出身の故ワンガリ・マータイさんは、日本へ初来日した際、「もったいない」という日本語に出会い、痛く感銘したという。彼女はこの素晴らしい日本語を、環境を守る世界共通語として普及させようと、”MOTTAINAI キャンペーン”を提唱した。


現在、環境問題解決に向け企業も行政も、こぞって様々な仕組み作りやビジネスモデルに取組んでいるが、本当に大切なのは、他力により生かされているという謙虚な気持ちをもつことと、全てに対するを感謝の念を育てることだと思う。それ無くして真の効果は望めないのではなかろうか。
佛教眼を開いて見れば、総てが尊く値打ちがある。これが佛教の経済思想の根底だという。

もったいない ー なんと美しく深遠な日本語であることか




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?