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ないしょのいちご

 「おいしいフルーツって人生のご褒美だよね」

折に触れ、母はまるで哲学者のように呟く。
 その指先にはぶどう、スイカ、梨…季節の果物がつやつや輝きを滲ませながら、その口に運ばれるのを待っている。


 いわゆるモーレツ社員だった父をよそに四人の子供を育て上げた母。スーパーのチラシとにらめっこしていざ買い物に行けば、カートにはあっという間に食材の山ができてしまう。
 そんな母も、果物コーナーでは特別に時間をかけてぐるりと一周する。
 使い古された黄緑色のプラスチックの編みかごに盛られたりんごを、まるで王様がお妃候補を選ぶように、真剣な眼差しで吟味する。
 何が母をそんなに真剣な目にしているんだろう。

 そんな幼い疑問も、夜ごはんの後にお眼鏡にかなった果物を口に運んで、
 「おいしいね」
 と満足げな母の顔を見るたびに消えていった。

 ある春の雨の日、私は学校を休んだ。
 新学期が始まって間もないクラスに行くことを考えるだけでお腹がしくしくと痛む。休み明けに名前もまだ知らない同級生の視線を想像すると錆びたように体がきしむ。
 ようするに、ズル休みだ。いけないことと知っていても、どうしても起き上がれない。

 静かに戸を引く音のあと、布団に座り込む重みを背中越しに感じる。
「熱はないみたいだけど。学校行くのしんどい?」
「ん」
布団越しに母の手がゆっくり私の肩を撫でる。
そのまま春の雨の音に包まれていると、私のまぶたはだんだん重くゆるんでいった。


 次に目を開けたのは、母が再び部屋の戸を開けてやってきた時だった。
 深い黒のお盆には見慣れない切子硝子の器、そこには大粒のいちごが、絵本でみた宝石のようにきらきらと光を放っている。
 ふたたび布団の縁に座った母は、ひそひそ声で言った。
「美味しそうなやつだけとっちゃった。ふたりで食べちゃう?」
 無言でいちごを見つめる私に母は、いちばんてっぺんの大きなへたを摘んで、その赤くて少し丸い先っぽをゆっくりと向けた。
「おいしい?」
「…ん」
 喉がぎゅっと熱くなったのは、いちごの甘酸っぱさのせいだけじゃなかった。

 母が私を見つめていることに気づくと、いつものように母を見返すことができない。
 次に瞬きをしたら、へんな声と涙がこぼれそうだったから。

 頭の上で、ぷちっと音がする。
「うん、おいしい。
 ちょっと酸っぱいのがまたいいね。」
「ん」
 おたがいに黙々といちご一粒を味わう。
 こんなに外は赤いのに、なかは白くてやわらかい。自分の歯形で欠けたいちごの中身はじんわり潤んで、まるで心のなかのように思えた。

 ふと、母を見上げると視線がぶつかった。
 私が何も言えないでいると、
 「練乳もかけちゃう?」
 いたずらっこの顔で、母はエプロンのポケットから練乳のチューブを取り出す。
 「うん」
 気づけば母の膝もとに近づいていた。

 器のなかにはまだ大きないちごがふたつ、私たちを待っている。
外の雨はいつの間にか止み、雲の隙間から太陽が少しだけ顔を覗かせていた。

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