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【「語り手」の問題としてみる】アニメ「平家物語」【感想】

はじめに
 『平家物語』はミリ知らではない、3ミリくらいなら知っている。そもそもの興味関心は「物語」そのものではなく、成立史にある。そんな中途半端な立ち位置で、先日、映画『犬王』を鑑賞しました。
 その映画には、私が「平家物語」という作品で知りたかった、琵琶法師たちの生活が、当時の受け入れられ方が、現代のロックで物語るというアレンジで確かに綴られており、大きな感動と満足と共に映画館をあとにしました。その時の感想はこちらに記しております。
 さて、その最後に「アニメ版『平家物語』にもチャレンジすべきか」というようなことを書き、タイミングもよかったのですぐに全話視聴と相成りました。アニメの方は1〜2話で挫折してしまったこと、その大きな原因がオリジナルキャラクタである「びわ」という少女にあることも書きました。実際に作品を見れば、それは杞憂で終わるのかと思えば、ストレートど真ん中ホームランに私が危惧していたことは的中。先の『犬王』とは真逆の感想をもつに至りました。
 ただ、制作会社との関連性から、これは意図された構造だったように思います。アニメ11話で、語り手と物語内の平家たちの人生を同時に描くには、あまりに尺が短過ぎます。だから、「語り手」の物語は『犬王』に譲ったのではないか。
 このレビューは、そうした前提をもとに、「なぜ、アニメ版『平家物語』のびわが「語り手」として成立しないのか」ということを記したいと思います。
 なお、このキャラクタさえいなければ、好きな漫画家さんのキャラデザに、時代考証の確かさ、音楽や、美しいシーンの数々、何より声優陣の演技──と、とても質の高いアニメであったこと、大変好みであったこともまた添えておきます。

「びわ」というキャラクタの必要性
 「語り手」を強く意識した作品として打ち出す際、『平家物語』でぶつかるのはその視点の多さでしょう。『犬王』で詳しく描かれていますが、人ならざる平家の霊たちの無念を琵琶法師たちが聞き、それを歌にしたものが『平家物語』です。彼らの物語を流布すること、これはすなわち鎮魂となる。
 そうした複数の語り手を、アニメでは「びわ」という少女一人に集約した点が大きな特徴となっています。同時代を描いた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はまだ未視聴なのですが、おそらくこちらは「語り手」の存在時代、描いていないのではないでしょうか。従来の『平家物語』の映像化は、他の多くの語りモノがそうであるように、そこに媒介者としてあった「語り手」の存在を省き、ダイレクトに視聴者と目の前の物語を繋げるような見せ方をしてきたと思われます。
 ですので、「語り手」の存在を作品内に打ち出したこと自体が、新しい『平家物語』として意欲的だと評価はできる。しかし、だからこそ、私は「びわ」という少女が担おわされたものを受け入れることができませんでした。
 『平家物語』という、一つの一族が隆起していくその過程は、群像劇的に描かれるのが通常です。アニメではそれを一人の少女の視点に集約し、わかりやすく構成しています。11話で描き切らねばならぬのですから、彼女のというキャラクタの必要性はよくわかるのです。しかし、そのために「人間としてのびわ」は犠牲になったと言わざるを得ません。

「語り手」の特異性
 多くの物語において、「語り手」は何らかの特異性を持っています。ここでは、それを3つに分けて考えたいと思います。
 ①「超越者」としての語り手、②「人間ならざるもの」としての語り手、そして③「人間」としての語り手です。
 「超越者」としての語り手は、神の視点に近い存在です。その多くは特異な能力を持ち、それは他に太刀打ちできるもの、対抗できるものではありません。山下和美『不思議な少年』の「少年」といえば、想像がつきやすいでしょう。この形で出てくるキャラクタはどこまでも「傍観者」であり、基本的には「物語」そのものには介入しません。
 「人間ならざるもの」としての語り手は、動物であったり、物であったりします。夏目漱石『吾輩は猫である』、絵本のバージニア・リー・バートン『ちいさなおうち』などがパッと思い浮かんだ作品です。「人間」ではないからこそ、彼らは「人間」の営みを覗き見ることができるのです。この場合、「人間ではない」というところがすでに特異であります。しかし、「超越者」のように特別大きな力を持つわけではありませんから、時代の流れや、それこそ人間の気まぐれによって害されることもあります。弱い存在です。
 最後に、「人間」としての語り手です。当然ですが、これが一番多いかもしれません。一人称小説を主として、一人の人物の視点に集約して物事を語る方法は、事件の当事者として追体験される効果があります。一方で、一つの視点でのみ語られるため、その人物が抱えている嘘や偏見もそのままに受け取ってしまう可能性もあります。作品として思い描くのは三島由紀夫『駆け込み訴え』あたりでしょうか。
 さて、以上の3つの分類のうち、「びわ」はどこに属するか──といえば、このどれにも属さない、あるいはそのすべての要素を兼ねている。そのため、立ち位置が中途半端になり、「語り手」として成立していない要因になっていると考えます。

「びわ」の持つ特異性
 職能団体である琵琶法師たちも、そのほとんどは盲目の法師たちによって組織されています。現実が見えないことが、この世ではないものを見る──これが、死者の魂を聞くことに繋がるのです。
 『犬王』においては、彼らはしかし一人一人の人間として描かれていました。師弟関係や組織内での力関係、その芸能を使って権力者に取り入る者、視力を失った過程も様々。ゆえに、彼らは異能者ではありましたが、作品の中では「人間」として扱われています。
 しかし、「びわ」はどうでしょうか? もちろん、彼女にも、「語り手」としての特異性はあります。
 まず、未来を見るという目。これは①「超越者」に近いものがありますが、この能力は平重盛も持っています。この共通点をきっかけに、ただの孤児に過ぎなかった「びわ」は平家に居候する形になるわけです。また彼女の母親だという白拍子の女も、同じ目を持っていたわけですから、同じ能力者でしょう。つまり、この作品世界観において、「異なる目で未来なり死者の世界なりを見る能力」というのは、少数ながら存在している。ゆえに、「超越者」とするには弱いのです。
 ②「人間ならざるもの」、③「人間」は相反する区分ですが、同時に語れるものですのでまとめます。そして、ここが最大の問題点でもあります。
 ②の特徴として「びわ」が持っているのは「成長しない」ところです。第1話のとき、彼女と同年齢だった重盛の子どもたちは、話数を経て、時と共に「大人」として描かれていきます。ある者は人の親に、ある者は恋をし、ある者には髭が生え──そうして、「平家の者」として望まぬ戦場へと駆り出される。
 「びわ」の「成長しない」点を強調するのもまたこの子どもたちで、「恋」の相手としてはまだ子ども子どもしい「びわ」を揶揄したり、他愛のない存在として見ているからこそ愚痴をこぼしたりします。しかし、このやりとりの生々しいところは、一方で清盛が「びわ」に会いたいと望んだとき、心配して兄弟が付いてくる──そういった何気ない場面に現れるのです。
 「びわ」は、その父親を盲目の琵琶法師、母親を両目の違う白拍子に持つ子どもです。「白拍子」という職種の女が、この時代、どういう立ち位置にあるのかは、前半の出家した白拍子、それについていった貴族の娘の描写でもわかるよう、非常に不安定なものでした。いわゆる「下賤」の民にあたる彼女たちと、平家一門の姫君である徳子の行く末が、同じ「女」という性によってさして変わらぬものだと描写されるのはなかなか興味深いところです。
 「びわ」はそうした「女」の運命を知っているからなのか、女性の衣装を拒み、少年の服装で過ごします。この「異装」もまた特異性の一つであり、彼女を「中性的な存在」として位置付けます。

物語の中での「びわ」の違和感
 このような「びわ」の性質が、一場面的にのみで描かれていたら、私もさほど違和感を持たなかったでしょう。しかし、先に述べたように、彼女の特異性は「成長する平家の若者たち」に対比する形で描かれます。ここまで来ると、「びわ」の「成長しない」点──「不老」と言っていいかもしれませんが──は、もはや「人間」として扱うには難しいのではないでしょうか。
 しかし、平家方の人間は人がいいのか、そもそもそんなに興味がないのか、「びわ」のそうした面に気にする様子もなく、彼女を昔から変わらぬ友人(という表現も正しいのかわからないけど)として接します。これが本当に気持ちが悪い。
 彼女は単に発育不全とするには、「少女」としての姿で描かれ過ぎる。当時、貴族の女たちは、その体の成長は子が産める証として、重要視していた。徳子の妹も、年端も行かぬうちに政略結婚で嫁がされている。彼女自身も同様に、政治の駒として利用され、望まぬ相手との子を産む運命にある。
 徳子はそうした人生の中でも、生きることの喜びを、子の成長や、夫からのささやかな愛情によって確認し、受け止めていく描写があり、これが物語としてのある種、救いにはなっている。しかし、「びわ」にはそれが一切ない。
 「びわ」は徳子の子をかわいがる。自身の母を尋ね、母の愛を知る。それを良いものとして認識している。だけど、彼女がもつ「語り手」としての特異性がゆえに、そうした生命の循環の中に入ることはできない。「びわ」という存在は、物語の「役目」を担おわされたことによって、「人間」であることを放棄させられた──そんなふうにしか、見えない。ここが、私の最大の怒りポイントです。
 「成長しない」点以外にも、彼女は貴族に対して敬語を使わないなど、当時の階級社会の外に置かれている節があります。重盛の子の誰だったか失念しましたが、高位の貴人を前に馬から降りずにいた子どもが、罰として打たれた描写があります。貴族の社会ですらこれなのですから、平民に過ぎない「びわ」の不遜な態度は、完全にNGなはずです。しかし、彼女はそれを咎められることはない。これを、「超越者」としての特質を見ることもできるかもしれませんが、それにしては彼女の力はあまりにも弱いのです。「傍観者」でしかない。

「びわ」の人生はどこにあったのか
 関連作品として挙げられている『犬王』は一方で、語り手たちにスポットを当て、彼らの人生を描き切ることに成功しています。
 もちろん、『平家物語』でそれをしたら、『びわ物語』になってしまって、もはや原型のない作品になってしまったことでしょう。しかし、物語のためだけに、「人間」として描かれなかった一人の少女を想うとき、どうしてもやりきれない気持ちになるのです。
 おそらく、私は「びわ」というキャラクタが好きだったのでしょう。『平家物語』は登場人物を生き生きと描いてくれたからこそ、その一人一人に愛着が湧き、感情移入できる。同じ次元で描かれている彼女もまた魅力あるキャラクタとして、その行く末を案じてました。
 しかし、この物語で彼女の人生が描かれることはありません。白髪で全盲になった大人の彼女が、遠い昔に消えた友人たちを想って琵琶を弾き語る姿のみを示します。着ているものからして、どこぞの金持ちに囲われたのか、完全に「人間外」のものとなったのかすらわかりません。平家の横暴に怒り、徳子の子どもをかわいがり、母の愛を知り、ネコを愛でていたあの少女の人生は、誰にも語られないのです。こんな悲しいことってある?

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