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母の言葉「なった気なるなや」

薄暗い台所で、母が昔、僕に言った言葉。今もその情景がありありと思い出される。僕の田舎の方言だ。意味が分かるだろうか?

時は今。僕には高校3年生の息子がいる。受験生だ。おかげさまで、10校ほどの大学を受験できる恩恵に与っている。進学校に通い、周りがみんなそうであるから、複数の大学を受験することは「当たり前」なのかもしれない。そう「当たり前」なのだ。なにかそのことにモヤモヤする自分がいる。お金をケチっているわけではない。そうではなく、そういう境遇を「当たり前」と思ってほしくなくて、息子にカチンときている自分に気付いたのだ。そんなとき、ふと思い出した言葉。

時は昔。僕は中学生くらいだったと思う。台所で家事をする母。僕は勉強をしていて、何か食べ物はないかと台所に探りにきたところだ。そんな僕に母は、「勉強もいいけど、たまには手伝ってよ」といったような気がする。それに対して、あろうことか僕はこう言ったのだ。

  「僕は勉強で忙しいんだ。僕と”おかあ”は住む世界が違うんだ」

それに対して母は、顔を真っ赤にして、怒っているような悲しんでいるような複雑な表情で、

  「なった気なるやな」

と言ったのだ。
だいたい意味が分かるだろう。「調子に乗るな」とか「何様のつもりだ」とか、そんなような意味だ。「何者かにでもなったような気持ちになってんじゃないよ」という言葉の省略形。
紛れもなく僕は、「何者か」になった気になっていた。母は中卒。父は高卒。なのに僕はなぜか学校の成績がいい。小さい頃からもてはやされて、目下、県下一の高校に進学するため勉強中。とんびが鷹を産んだ、自分は天才なんだ、と勘違いしても仕方ない境遇。

言われた母は、悲しかっただろう。母が中卒なのには理由がある。別に成績が悪いから進学できなかったわけではないのだ。働かなければ家計を維持できなかったのだ。父だってそうだ。いろんなことを諦めてきたと思う。だからこそ、自分の子どもには、諦めてほしくない。才能をつぶしたくない。そんな一心で子育てをして、子どもに自分ができなかったことを託してきたのだろう。それなのに、この言葉。よりによって「住む世界がちがう」とは、なんたることか。勘違いも甚だしい。昔の自分に怒りが湧いてくる。

  「なった気なるなや」

思えば、母の声をこれまでの人生で何度も聞いてきたような気がする。運よく僕は幸せな境遇だ。男性、高収入、高学歴、日本に住む日本人、シスジェンダー。これはもう特権階級だ。恐らく無意識に差別をしてしまっているに違いない。そして、今の境遇は自分で勝ち取ったもの、自分は勝ち組と勘違いしそうになるたびに、「なった気なるなや」という声が聞こえてきていたのだ。そのたびに謙虚な気持ちを取り戻す。

  「なった気なるなや」

今僕は、社会に蔓延する「差別」というものに心を痛めている。直接的に自分に不利益をもたらすわけでもないのに、である。なぜだろう。

きっと、あの時の母の声に応えたいのだ。あの時の母の悲しみを癒したいのだ。僕は決して「なった気」にはならない。そして、「なった気」になる人が少しでもいなくなって、差別がなくなる社会を目指して、小さいかもしれないけど、僕も声を出す。

  「なった気なるなや」

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