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伊丹万作の言葉を噛みしめる

伊丹万作の言葉を噛みしめること、
それが最近の日課であり、精神的安らぎを得る手段である。

伊丹万作は戦前・戦中の映画監督である。

彼の文章のひとつに「戦争責任者の問題」というのがある。
ありがたいことに青空文庫で無料で読める。

この記事では戦後まもなくに書かれた彼の言葉を抜粋し、
今現在の「オリンピック禍」に当てはめて考える、ということをしたい。

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

ここから当時の一般大衆の生活の様子がうかがえる。
そして今まさに新聞報道、テレビ報道が愚劣でばかばかしい。
さらに、新聞テレビに触れてしまった人々のうざったさ。
誰それがメダルを取った、誰それに感動した、等々。
なんであなた感動しないの?あなた非国民?的な扱い。
やはり今と戦時中とは似通ったところがあるのだ。

しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

「もともとオリンピックには反対だった。」
「でも始まってしまったものは仕方がない。」
「始まったからには文句を言わず応援するべきだ。」
みたいなことを言う人のことが僕は本当に嫌いだ。
そして、オリンピックが終わって振り返ったとき、
みんなが「いいオリンピックだった」と言えば「いいオリンピックだった」と言い、
みんなが「悪いオリンピックだった」と言えば「悪いオリンピックだった」と言うのだ。
本当に嫌いだ。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

これは本当に大事な指摘だ。
「国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体」
この部分だけでも毎日毎日声に出して読むべきだ。
端的には低い投票率などに表れているやつだろう。
誰が菅義偉や小池百合子を支持しているのか、よく考えるべきだ。
たとえそれが「結果的な」「間接的な」「消極的な」ものであっても、だ。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

ここも重要だ。まったくその通りだと思う。
個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかったのだ。
そしてなんらかの大きな改革をする際には決まって外国の力が必要なのだ。
真っ当な憲法は外国の力なしではできなかった。
日本人が独自の憲法を作ることなど笑止千万だということが、現在の日本人にさえ理解できていないのだ。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

「国民の奴隷根性」、これほど見事に日本国民の精神性を表した言葉はないだろう。

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

政治や国民に対して「仕方がない」「どうしようもない」では許されないのだ。
「どうにかしなければならない」のだ。
主権者は国民なのだから。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

残念ながら、今でも日本の国民は救われてはいない。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

伊丹の不安は的中し、現在の「オリンピック禍」を招くに至った。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

これがこの文章の「肝」だろう。
真剣な自己反省と自己研鑽、それこそが進歩に必要なのだが、
自分も含めて本当に努力できているだろうか?
日本国と日本人が退歩するようになって久しい。
失われたのは10年か20年か30年か?
現代日本が右肩下がりの衰退曲線なのは論をまたない。

こうして噛みしめてみると、伊丹の文章は本当にそのまま現在に通じてしまうことに気づく。
それは日本人が成長できていない証拠であり、
僕自身も然り、である。

そうして僕は、自己反省と自己研鑽をするために、noteでの自己表現を今日も試みるのだ。

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