外野

観客が何人であろうとも観客がゼロの時と同じように振る舞えたらいいのに。

自分も他人も、くだらな過ぎてイラつく。
中高年になってもいつまでも中二病を引きずっている。

多分私自身がマウント気質を色濃く持っていて、だからこそ他人のそれを見るとげっそりとするのだろう。

だから、他者批判と自己批判を同時にしている自覚はある。
くだらないと思う。
くだらなすぎるので、ひっそりと呟こうと思う。

自分はこれだけ正しいことを知っているとか、他人の落ち度を一つ一つ拾い上げて指摘するとか、
いちいち言語化して相手を貶す、自分をアタマがいいと思ってる人は、

これこれこういうわけだからこの人はダメなんだ、それが分かる自分はカッコいいんだと、結局、他者批判を自分上げの材料にしてる。

憎ったらしい誰かが失言をしないかと虎視眈々と見張っている。
その目の敵にしてる人間に、実はとても依存しているのだが。


感性が未発達で偏屈だとそこからの理論構築もみすぼらしくてチープだ。
それを万人に理解され得る真実であるかのように語る人を見ると恥ずかしくなる。

少し昔の自分を見てる気分にもなる。
…イタタタ。

精神年齢が幼い人間ほど嫌いなものが多くて潔癖だ。
そのレベルに合わせて言い分を傾聴してやると、ベビーシッターのような気分になる。

好き嫌いの多さや拒絶、反発心について、自分がなぜそれを嫌うか、疎ましく思うかをもう少し冷静に見てみたら、思春期みたいにそれを嫌う自分に対して、少しは羞恥心も出てくるだろうに。
 
自分の思考回路の幼さ、面倒臭さについて、対人経験が浅いから自覚に乏しい。

滑稽なポジション争いに飽きた。
知らんわ、オタクみたいな小物。
私ごときに一目置いたり目の敵にしたり、やることなすこと暇なんだね。

結局、建設的な対話による真実の希求よりも、自分が相手に勝つことだとか、言い負かす、言いくるめることが大切なんだね。

自分を認めて。それ以外の本音がない人。そのレベルの人と、別に話すことはないし視界に入れることすらないよ。

そんな他人のことを嫌だな、醜いなと思うならば、なるべく負の感情は言語化しないで置いた方がいいのかも知れない。
自分はアタマがいいつもりの愚か者になりたくないと思うのであれば。

いちいち他人の醜さや滑稽さに対して反応しない方がいいのだろう。
でも目を逸らす、無かったことにするのも違う気がする。

汚く滑稽なものを目の前の他人に見つける。
ということは、多分自分の中にもある。

とりあえず目視して存在を認めながら、でもそれに時間を割くのは辞めよう。

そこにこだわる時間を他のことに注視する時間に変えて行こう。

大衆に「この人は自分の意見の代弁者だ」と思って貰うことにそんなに今は価値を感じなくなった。

嫌だよもう、大人になってまでお遊戯会。学芸会。
飽き飽きだよ。

書きたい文章と多くの人に読まれる文章は違う。
ある程度の親切さがないと、読めないよね、今の大衆は。赤ちゃんに説明するかのような、人を馬鹿にした書き方でないと。

大衆に向けるのか、伝わる人に伝えるのか。それが問題だが、

大衆を育てるということがもし出来たら無敵なんだろう。

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