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さよならをするたびに

Every time we say goodbye,
I die a little,

ジャズのスタンダード、
「Every time we say goodbye」(Cole Porter)の冒頭、

高校の頃、その歌詞を、
「さよならをするたび私は少しだけ死ぬのだ」
と思っていた。
別れとは、私の一部が死ぬことなのだと。

実は今でも、
たとえ正確にはそんな意味ではなかったにせよ、こっちの解釈の方がしっくりくる気がしている。

親しい人との別れ。
それはもしかしたら、
親密な関係により生まれた
自分の中の「その人」が、
死んでしまうということなのではないだろうか。
他者との係りにおいては、
相手の中にジブンがいて
自分の中にアイテがいる。
関係が終わるとは、
つまりそれが終わるのだということ。

ただ記憶には残っている。
親しかった頃のやりとり。
でもその記憶にあるアイテを、
現実の相手の内に探しても、
もうそこにはいない。
もう死んでしまったのだから。
だからどのような別れであっても、
別れというものには、それなりの弔いと供養が必要だと思う。

もっと広げて考えるなら
人は誰でも生物的に誕生してから、
何度も死んで生まれてを繰り返しているのかもしれない。

今、息子は小学5年生。
先日彼が2歳の頃、
喜んで読んでいた絵本を見つけた。
パラパラとページをめくりながら、
ふと探しても、
もうあの2歳の彼はいない。

当たり前なのだけど、
彼は今2歳ではない。
しかし記憶の中には、
2歳の彼はまだ存在している。
今手にしている絵本と2歳の彼は繋がっていて、
うっかりまだ繋がっているのだと思っていたのだけれど、2歳の彼は
もうここにはいないのだ。
その頃の自分も同様に、
ここにはもういないのだけれど。

数々のエピソードを並べ、
例えば数珠玉を紐に通すようにつなげてゆく行為を仮に記憶とするのなら、
記憶は現在を過去からの繋がりとして見るための手段であるとも言える。ある種の物語だ。

そう思ったら
昨日の自分が
明日も同じかどうかなんて
未来の自分が辻褄を合わせているに過ぎないのかもしれない。

そもそも
コールポーターは、
恐らくそんな事
考えてなどいない。
でも、やっぱりこの部分は個人的には
「さよならを言うたびに、私は少しだけ死ぬのだ」って解釈したい。

余談だけれども
「To say Good bye is to die a little.」ってハードボイルドなセリフがあって、こちらはレイモンドチャンドラーの作。
1953年の「長いお別れ」という小説に出てくるのだそう。
コールポーターは1944年に「Every time we say goodbye」を発表していて、チャンドラーはそこからこのセリフを発想したのかどうかは分からない。
ちなみに村上春樹訳だと「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」ってなっているらしい。




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