自由と忍耐
フランス人は自由を発明し、日本人は忍耐を発明した。
僕が知る範囲でのフランス人は自由の為に戦う人々である。自分を守る為、一部の人間だけではなく平等に自由を手に入れる為に生きているように見える。
そもそも自由とは、ルールや規律を重んじるからこそ手に入るものだ。自由を自分勝手や放縦と勘違いしてはいけない。
彼らにとって保守的というのは、あまり良く思われない事で、革命こそが自由を勝ち得る為の術である。
男女平等においては、家父長制を悪の根源と定義し、女性の社会進出、教育における性差をなくして行くという考えがある。男だからこうあるべき、女だからこうあるべき、という価値観を否定し、少数派にも光を当て誰もが生きやすい社会にしていこうと言うものである。
そういった考え方がある社会で育った人々は、日本に来ると衝撃を受ける。変わりつつはあるが、日本は先進国であるにも関わらず、男女差別は今だにそこかしこに居座っているし、そもそもそれが差別である事に気付いていない人が多い。50年前のフランスみたいだと揶揄されるほどに。
一方で、日本人の考え方の根底には調和を美徳とする風潮がある。社会が持つ影響に対応していく、求められるものに対して当てはまる人間になっていく。
それには、忍耐が不可欠である。男女差別と言っても、女には女の辛さが、男には男の辛さと言うものがあり、耐える事で社会の調和を保つ事ができる。
社会の最小単位と呼ばれる家族では、男は働き、女は家を守る。このような考え方は、緊急事態であった戦時中の日本が、家族社会に求めたひとつの姿である。
現代の日本人、また国際社会にとってこの姿は、実に時代遅れで、馬鹿な考え方だと言われる。
しかし、時代によってその時々の正しさは違うし、この姿が間違いであったと批判する事に必死になり、右翼、左翼が議論とも呼べない陳腐な言い争いをする事こそが実に不毛である。
つまり、時代錯誤な社会体制が問題なのではなく、要はその社会が如何に機能していたかが、これからの社会形成にとって重要であるのだ。
どのように男女差別の時代に家族社会が機能できるのか。それは、他者への理解、尊敬、感謝の念であると思う。どちらかが偉い、という事はなく、互いの辛さを理解し思いやり、尊敬して感謝するからこそ機能する。
緊急事態だった日本社会において、男は働いて家族を養っているからといって女子どもに高圧的である訳にはいかない。専業主婦は家族の為に24時間無給で働いている。女は、男が金を稼げなければ馬鹿にして、愚痴をこぼし会社に命を削られる男の安心できる場所を奪う訳にはいかないのだ。
今の時代、日本は以前と比べて随分と良くなって、女性が働くのが当たり前で、男女が家事を分担するのが普通でなければならない。
家事を良くしてくれて、物静かで反抗しない嫁を求める男。年収が高く、自分を楽にしてくれる男を求める女。過去に求められた家族像の陰で甘い汁を吸おうとする社会では必ず破綻する。
自分はこんなにも尽くしているのに、したい事を我慢しているのに、という不平不満を言っていては、いくら不平等な価値観が見直され、法が変わっても人間は間違った"自由"を求め続けるのだと思う。
権利ばかりを主張して、その責任を果さないのは、自由ではない。傲慢である。
性差を平等という正義の名のもと、人間をニュートラルな生き物にするのは的を射ていない。
平等な社会、ルール、規律に人々の心がともなってこそ、この社会は機能する。
自由と忍耐。このバランスが調和した時に人々は本物の平等を感じる事ができるのではないか。
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