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マトメル→マトマル

京都講座の始まり
昨日の朝、会場へと歩いている時、考えていた。
なかなか、まとまらず、
何がまとまらないのかもわからないけど
何かまとまらず、
いつも、わさわさしている。
これをなんとか落ち着かせようと
色々と画策するけど何か違うと、また、仕切り直し。
正月
立春と切り替えのタイミングを使おうと準備するが
毎回
なんだか
やり直し。

そして一昨日もちょうど旧暦の正月という切り替え。

思うところあって 
色々と変遷してみたのだが
やはり、何か整わないものを感じて、
そして、会場に向かって歩いていた。


 

扉はそこにあるのだが
なかなか 開いたようで 開いていない感じがする。

京都講座2日目
「わかる」という言葉で講座の流れが変化した。

「わかる」とは
理解する。
理解の解の字には、刀が入っている。
理解・認識・努力
これらの漢字にもみんな刀が入っていて
分解することで理解も認識も努力も出来上がっている。
つまり、
分けていくことで、再統合が起きることを示している。
ふと、生徒さんが言う
「なぜ、分けないとわからないのでしょうか?」と。
そこで私は、
「分解することで、細かくすることで、理解・認識が深まり…(努力も分けていく作用なのです)」と答えかけて、
深まり…のあたりで、
私の中にピコンと立ち上がったのは、

分けないでも分かる部分
分けてしまうと分からなくなる。
それこそ 元


と言う響きだった。

で、
そういえば
分解することで、細かくすることで、理解・認識が深まり努力も分けていく作用
って、誰に教えられたんだろうかって即座に思った。
誰かの意識を伝え続けていた。

元は別れていない
未だ未分されていない部分
未分別の知を解いたのは道元である。
東洋的な元はここにある。
分け隔てる前に兆しを感じる感性が、日本というモノの中に存在する。
そして、現実的には分け隔てられた世界の中にいると感じている意識。
この相反する世界は同時に立ち上がっている。
二つの世界は
包み包まれているのである。

分け隔てられたと感じている意識が
分け隔てられない意識を語るからこそわかりにくい。
わかりにくいが、そのまま伝えることでしか
分け隔てられない意識にはつながらないことに気づき体感した。


 

花と空気が重合するこの世界は曖昧で怪しくて捉えられないと思うのは
分け隔てられた世界に存在すると思うからこその発想である。

頭の違う部分が作用したのか
帰りの新幹線の時刻や、家にたどり着いた時の時間の感覚が
今までとは少し変わってしまった。

そして今朝
今まで、まとめようとしてきたことに気づく。
マトメル のではなく
勝手に マトマル のである。
ここはそんな場だったことを思い出した。

 

トトノエル
マトメル
のは、分化されたと感じているこちら側の意思によってなのだろう。
多分
もっと大きな仕組みの中にあること。
この私の手に負えるものじゃあない世界を感じた刹那
真にスベの世界に委ねることで
次に何が起きてくるのかが
諸々、楽しみすぎてココロがこぼれ落ちた。

マトメルからマトマルへ
ココロ こぼしながら今を立ち上げていく。






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