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秋を通り越して冬、読んだ本や見た舞台

ますます書くことから遠ざかっている。最近は日記どころかツイッターにも何を書くか迷う始末だ。だからといってインプットしているかというとそういうわけでもない。
受け取ったり考えたり感じたりして、ときどき何かを強く言葉にしたいと感じることもある、それは相変わらず強くある。
でも口から出てしまうと、軽薄なことをしたなという気持ちになったりする。
熟すのを待っていたら一生が終わってしまうだろう。だからときどき、不完全でもいいから書きたい衝動にまかせる。

最近読んで面白かったのは東浩紀さんの『テーマパーク化する地球』。
自分が震災後に活動してきたことや内面的な流れの中で考えてきたこと、フランスに移り住む前と今の自分がいったいどういう変化、というか本当は変わってはいないんだけど何が奥底から掘り起こされて表面にあったものと交代したのか、そういうことは自分自身の中では徐々に明確になってきているのだけど、言葉にしようとすればするほど途方に暮れることになる。
ぐいぐいと水を飲んで根がめきめき太くなっていったような変化なので、わたしはどこにも行っていない。説明しようとしてことばを探しに飛び込むと、地質全体に食い潜っている根を引き抜くようなことになって、根はちぎれるし底まで抜けることがない、というようなすかすかした手応えだけが手のひらに残ることになる。
けれど東さんの文章を読んでいるうちに、自分の内側で乾いていたものがなんだったのか、それを満たすべく注がれたものがなんだったのか、それがどう社会の現象と繋がるものごとであったのか、そういうことに都度はっと立ち戻る。
ことばというものはこうやって使うのだな、と心地よくその根をするすると解いて社会に対して透かして見るようなことができた。
丁寧で衒いの無い導き方は心地良い。筋も感覚も、現在も100年も損なわない、こういう文章にはなかなか出会わなくなったな、と思う。

強く興味を惹かれたので他のゲンロンの本も読んでみた。
ゲンロンの運営者でもあり表現をする立場でもあった東さんの言葉を読んで、私がアパートメントをどう自分の身の周り、つまり社会と繋ぎ合わせたかったのか、何故なし得なかったのか、どういう種類の奈落を感じていたのか、そういうことを考えたりした。
まだ少ししか東さんの言葉に触れたことがないのでもう少し追ってみたい。

上原善広さん著の『日本の路地を旅する』も興味深かった。
「路地」とは中上健次が被差別部落をそう呼び、筆者もそれを倣ったことばだそうだ。路地出身者である筆者が日本の各地の路地を訪ね歩きながら思索する。
部落問題について私は無知な部分が多くてこの本がはたしてどういう位置を占めているのかちょっと分からない。
宮本常一をもう一度読み返したくなった。

あと、高野秀行さんの『異国トーキョー漂流記』が良かったな。
高野さんの本と米原万里さんの本は好きで、ご飯を作るときに読み上げ機能でついつい聞いてしまう。うきうきしたり胸をぎゅっと絞られたり知的好奇心をそそられたりする。
これは東京で出会った外国からきた人たちとの関わりを書いた本。

泣きたくなるほど何もできなかった夏の終わりに友達にSOSを出したら一気に色んなことが解決して、やってきて、9月と10月は忙しかった。
新しいことをふたつはじめた。
あまり舞台とか展示は見てない。
見てもあまり釈然としない気持ちになることが多くて、これというもの以外は避けている。自分が好きだと思うものじゃなくても、それを正しく評価する目を持ちたいしそう意識してきたから自分の基準はある程度信じている。
でも、今わたしが過渡期にあって、ちょっと極端になっていることも忘れないようにしなければ。



昨日ポンピドゥーで見た舞台は面白くなる予感があった。
広い空間にたっぷり照明を当てて、でもアクティングスペースはお客さんにとても近いところだけ。
ストラヴィンスキーの『春の祭典』を、指揮者を思わせるような動きで導いてゆくのだけれど、だんだん客席にいる自分たちがオーケストラの団員でこの音楽に関わっているような気持ちになってくる。いや、もしかしたら私たちはただの観客で、あのただ光の当たっている、舞台の空の部分にオーケストラがいるのかもしれない。そうかと思えば、やはりその空の部分には観客席が想定できそうな気がしてきたりする。
途中手元のパンフレットにわたしの髪が触れかさっと音がしたときに、観客が全員、音もたてずにその体と音楽に集中していることに気づいた。
こちらを向いているダンサー(指揮者)の一挙手一投足に自分の耳と体が感覚を合わせて、次の音を待ち、動きのテンションを予測している。
音楽を奏でるのは私ではない。目の前のダンサーでもない。スピーカーから流れてくる音楽は実際には私のからだには関係がない。実は目の前のダンサーがそれを誘導しているわけでもない。
それなのに、なぜか自分の体が、音を出すということに対して、なんらかの準備をしようとしている。
そういうことにはっと気づいた。

舞台は、同じ空間に、演じられている人やものごとと、それを見ている人がいるということがとても特別で重要なことだと思う。
以前見た高嶺格さんの作品で、さっきまで舞台上だけが舞台であったのに、あることをきっかけに急に客席までもが演じられるスペースとして含まれてしまった、観客の誰もが自分はただ舞台を見ていただけなのにある瞬間に急に自分のからだがある客席にまでスポットがあたったような感覚になったものがあった。
そのときの、急に空間がぐわっと広がった感じ、今まで目だけ、視覚としてその会場に存在するだけであった自分が、急に体を取り戻したような感覚を私は忘れることができない。(その「あるきっかけ」が何だったかということに関してはすっかり忘れちゃったのだけど…多分当時の日記を読めば書いてあるんだと思うけど、いつかひもといてみよう。)

本当はヤン・ファーブルの『死の天使』も思い出したりしたんだけど、長くなるから割愛。

お客さんを舞台に乗せてしまうとか、客席に話しかけるとか、はたまたお客さんの日常の中で踊る…とかそういう方法じゃなくて、目の前に行われているパフォーマンスと同じ時間のなかに自分の時間も組み込まれているのだという感覚や視点のスイッチがおこるようなこと…
そんなことができないかな。

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