過去から分かること

昔の自分の書いたnoteを読み返していると、自分の歴史が分かって面白い。
率直な感想としては、昔の方が今よりも真剣に現実を生きようとしていたなぁ、ということ。

今の方が、毎日いっぱいいっぱいで、人生を楽しめていないかもしれない。

学校とか辞めちゃうかw
(現在、毎週末に往復4時間かけて漫画イラストの学校に通っている)

今までの僕は「続かない」と思っていたけど続ける意味がなかったのかもしれない。

そもそも幸せだから。

足りないフリをしていたのかもしれない。
すでに自分の周りには、自分を好いてくれる人がいて、それで充分だったのだ。

1人でいた頃は有名になりたい想いが、ずっと強かった。有名になって、みんなに自分のことを思い出して欲しかった。自慢して欲しかった。

あの頃は、それで良かったのかもしれない。満たされない想いが原動力になっていたから。

でも、今は違う。
過去の自分の幻影に従って、続けられない自分から脱却しようと、夢を追うフリをしている。

本当は今の僕はただ、穏やかに生きていたい。

昔のように、ギラギラした想いなんて持っていない。正直、学校の先生のギラつき方に引いている節すらある。昔は、そんなギラギラした人を求めていた筈なのに。成功したくて。同じ熱量の人を探していた。

そんな想い、今は毛ほども湧いてこない。

転職活動中、ギラギラした社長さんに会った時は自分に覚悟が無さすぎてビビり散らかしてしまった。3年前の自分なら考えられない。あの頃は、やりたいことは無理くりやっていた。自分の考えが正しいと信じて疑っていなかった。

それが若さ故のものなら良いのだが、それを失った今も心が子供のままなのは何故だろうか。汗

自由きままに、自分を必要としてくれる人の為に、自分に出来ることをやる。
それで良いのかもしれない。

理想や夢、希望なんてものは、人生を生きる為に必要なガソリンのようなものだ。
確かにそれらは人生を豊かにしてくれるし、実際に楽しかった。
ただ、必死に夢を追って努力することが幸せなのかと言われると、きっとそうではない。

夢を叶えることが幸せなのではなく、夢を想像するその時間が幸せなのだ。
やりたいことなんて、やってしまえば、ただの日常に変わる。興味もなくなる。
そんなことに、やりたいことを白み潰しにやって気付いた。

そして、こだわりなんて、どうでも良いのだ。

友達の夢だったから、夢は叶えないといけない、途中で諦めてはダメだ、大卒じゃないとダメだ、お金をたくさん稼がないといけない

誰が決めたんだ、そんなこと。

今ある現実を大切に生きる。
健康に気をつけながら、自分を大切に思ってくれる人と過ごせる時間を大切にする。面白そうなことに挑戦し続ける。

それで良いのだ。

大きな目標なんていらない。
世界に名を残すことは出来ないかもしれない。

それでも、自分が幸せに生きたと、1人でも知って貰えたら、その人にだけでも何かを与えることが出来たら、僕の人生にも意味が出来る。

そんな想いで
今も文章を綴っていたりします。


僕は死にたくないですが、聖火のごとく、いつか僕のこのしょうもない想いをエネルギーに変えて生きてくれる人がいたら、少しは生への執着が和らぐかなとは思います。

今までは「次はキミだ!」って言われたかったのに、今は逆に言いたくて仕方ないという。
これはアレだ、少しは大人になったということだ(※違う)

過去を通して、今を変えていける。
この文章が未来を生きる自分、はたまた、まだ見ぬ誰かの力になれなら幸甚です。


てか、なんだかんだ、絵を描くよりも文章書く方が好きなのかなぁ。ずっと書いてるよなぁ、小学生の頃から。

小4の頃から日記書いてるとか、よくよく考えると狂っている。そのモチベーションが「自分の生きた証を残したい」っていうのもねw

"僕は楽しく人生を生きました"

そう、死の間際に思えたら幸せだな^^

ゴールに向かって、今はその道中を楽しもう。

負の感情なんて、道端にポイ捨てだ。


明日はもっともっと
笑顔に会いに行こう🎵


そして、


その笑い合った想い出を
また残せると良いな^^

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