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映画『すべてうまくいきますように』を観たあとで両足を捻挫して、なおさら安楽死を希望するようになった話

ごきげんよう。雨宮はなです。
土曜日はある映画館で満席だったようです。

『すべてうまくいきますように』公式サイト

作品を観た人たちが安楽死についてどのような考えに至ったのかが気になるところです。
さて、昨日はうっかり「日本人には早すぎると思った話」をしましたが、本当は「自分が両足を捻挫して、なおさら安楽死を希望するようになった話」をすると予告していたのでした。

両足を捻挫して、なおさら安楽死を希望するようになった

先日、映画宣伝会社の方からTwitterで声をかけていただき、試写会に参加する予定でした。
ですが、ひょんなことから私は両足首をひどく捻挫し、歩行が困難になってしまいました。

杖を突いて歩いている老人と同じか、それより遅いスピード。
座っていてもじくじく痛む両足。
渋谷ユーロスペースに行くにはスクランブル交差点を通常の徒歩スピードで渡り、坂を上って下ってとする必要があります。
とうてい、駅構内から30分では会場にたどり着けない。
そう判断し、痛みも限界に来ていた私は謝罪と欠席の連絡をしました。

その後、3日間は家から出られず、トイレに行くのもお風呂に入るのも痛みと緊張が付きまといました。
気分転換にお気に入りのカフェにいくことも、自宅のWi-Fiの弱さをカバーするためにちょっと歩いてファミレスにいくこともできない。
良かったことといえば、「通勤」が必要なかったこと、体を動かす仕事に就いていなかったことくらい。

それで改めて思ったんです。
「ああ、私は絶対に体と頭がしっかりしているうちに安楽死がしたいなあ」
って。
せっかちでわがままな自分の性格を踏まえると、この状態が日常になるのは無理だと判断しました。

もともと安楽死を希望しています

私がいつごろから安楽死を希望しているのかは覚えていません。
ですが、再現VTRやドラマで植物状態のキャラクターが出てきたり、苦しみながら延命治療を受けているような描写があると「そんなに生きていることに拘る必要はあるんだろうか」と義務教育を受けているような年齢の時からずっと疑問に思っていました。

その後の人生であったできごとの影響もあり、私は安楽死を希望するようになりました。
自分で自身の世話をするのに困難が生じたら潮時で、それ以上は増えるだけの「できない」に絶望し、尊厳を失っていくだけだからです。

『すべてうまくいきますように』の登場人物であるアンドレの「自分らしく生きられないなら終わりにしたい」という気持ちはよくわかります。

そもそも「安楽死」と「尊厳死」の違いって何だ?

「尊厳を失わずに死ぬなら尊厳死では?」と思ったことがあります。
それで調べて見ると、日本ではおおざっぱに次のような違いがあると知りました。

尊厳死:延命措置や治療を拒否し、死ぬのを待つ
安楽死:死ぬために薬を使う

人間が手を加えるか加えないかが定義の違いのようです。
個人としては「人としての尊厳を失わないために手を加えるのは尊厳死」だという考えです。

自分の尊厳が保たれた状態で人生を終わりたいという考えはそんなに大それたものでしょうか?
アウシュヴィッツにいた人がいちばん辛かったのは「いつ終わるかがわからないことだ」と言っていたそうです。
「いつ終わるか」を決めることで得られる幸せや安心もあるのです。

さいごに

日本人は始まりを気にするくせに、終りには非常にルーズですよね。
しかも、当事者の意思や都合を無視することがほとんど。
それが人生の最期まであるんだから、本当にうんざりします。

ホロリな親子ドラマで終わりませんように!
そして、個人の「意思」が「違法」とされる日が早く終わりますように!

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