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映画『すべてうまくいきますように』が日本人には早すぎると思った理由

ごきげんよう。雨宮はなです。
映画『すべてうまくいきますように』を観て、これは日本人には早すぎるかもしれないと思いました。
でも、早いうちに観ておかなければいけないとも思いました。

なぜ、「日本人には早すぎる」と思ったのか?

日本人は「死」を避けたがるからです。
ついでに「老」も避けたがりますね。
必ずやってくるものに対しての拒否反応が強く、恐ろしくネガティブなイメージを持っています。
それは、種の保存を考えるのであればよい事でしょうが、そうでない部分にまで反映され過ぎていてちょっとしたビョーキのレベル。

「死」に対しても本当に免疫がない。
最近になってようやく「終活」だとか「エンディングノート」だとか、そういった単語が聞こえるようになってきました。

「どう死ぬか」と「どう生きるか」はイコール

「終活」は先に遺品整理をするようなもの。
でも、「どう死ぬか」を考えたことはありますか?
アンドレのように「自分らしくいられなくなったから死にたい」と思って、そこから考え始める人がほとんどのような気がします。

それが安楽死を反対される理由のひとつなのではないでしょうか?
本人にとってはどう死ぬかを考える「よいタイミング」でも、周囲からしてみれば「イキナリすぎる」のです。

私は未成年の頃から「延命措置や治療は受けたくない」し「ボケる前に死にたい。ボケたまま生きていたくない」と私の理解者たちに伝えてきました。
(念のために記載しますが、これは他者に対して「ボケたんだから死ね」等の主張をしているものではありません。)

これを「どう死ぬか」に反映させると…
「体の自由が利いて頭がはっきりしているうちに、準備を終わらせてから安心して死ぬ」
になります。
では、安心して死ぬためにどう生きるか?

①けがや病気に気を付けて、不自由な体をつくらない
②常にインプットとアウトプットに気を使い、頭を休ませない
③持ち物や登録先は最小限にし、把握しておく

全体主義の日本には受け入れられにくい考えなのが「安楽死」

価値観の相違が話題にあがると、よく「昔の人は」とか「古い世代は」なんていいますよね。
でもそれはちょっと違うと知りました。
本来は「価値観のベースが個人主義なのか、全体主義なのか」。

個人主義:個人が幸せになるために思考、行動する。
全体主義:集団が幸せになるために思考、行動する。

個人主義に対して「それって個人のワガママじゃないの?」「社会で生活する以上、集団のことを考えるのは当然でしょう」と思う人もいるでしょう。
全体主義があるべき姿…褒められる姿だと思うかもしれません。

全体主義は日本でいえば、いわゆる「村(社会)」の考え方です。
外の世界へ出さないのも、帰ってこさせたがるのも、子どもを産ませたがるのも「村(社会)」の存続のためです。
最近になって急に「個人」というものが謳われ、重視されるようになりました。
だから、個人を蔑ろにするような価値観は「古い時代のもの」と感じられるのでしょう。

私は明らかに個人主義。
自分の幸せが伝達したり、溢れたときにそれが周囲に共有されると考えています。
そんな私が幸せになる要素のひとつに「望んだ状態で死ぬ」があり、その方法が「安楽死」です。
ただ、これは全体主義から抜け出せていない日本で受け入れられたり運用されることは難しいと理解しています。

映画がハードルを下げてくれる

だからこそ、こういった映画が必要なのです。
会話では「安楽死だなんて、とんでもない!」と取り付く島もない相手にも、アプローチできる術として。

「だってほら、フランスの話だし」
「ソフィー・マルソーが出てるのを見るだけでもいいし」
「映画の完成度が高いって聞いたし」

そんな誘い文句で「安楽死」というワードに慣らす素材にしては上質すぎますが。
映画の感想を言い合ううちに、テーマを考えてくれるかもしれない。
「あの映画をみて考えるようになったんだけど」ときっかけになってくれるかもしれない。

「安楽死」の考えが早すぎる日本人にはちょっとオトナな、遺族側にだいぶ“配慮”された作品だと思います。


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