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コロッケの話

久々にコロッケを自宅で揚げた日の話です。


その日はお盆休みの最終日で、翌日からは仕事だった。
台風が直撃していて、交通機関も大きな商業施設も営業していない。
お盆休みだというのに、台風の影響で帰れないことを危惧し、帰省予定をキャンセルした。

カーテンを開けると、横風でベランダにも雨が降りこんでおり、ただただ降りしきる水を暫く眺めたりした。


今日は一日中お家で過ごそうと、
怠惰と少しの高揚感が混じったハイブリッドで、寝起きのアイスコーヒーを飲む。

今年の春から共に同じ家で暮らし始めた彼が、「台風だから今日はコロッケを食べよう」と言った。


私はなんのことだか分からなかったのだが、
ネット上で「台風の時にはコロッケをたべる」という風習が一部界隈であるらしい。

コロッケを作るのはとても久々だった。
なかなか色んな過程を踏まないといけないので、
普段は、さぁ作ろうと腰を上げにくい。

台風で今日は一日中家にいるのだから、今日はコロッケにもってこいの日だ。
1人では手間がかかる料理も2人でやれば分担できて時間もかからないので非常に有難い。

ジャガイモをシリコンスチーマーに入れて、
レンジで数分。
なかなか柔らかくなるのに時間がかかり、これなら茹でた方が美味しいし手間が省けたと後から思う。
これは時短で手軽と謳われるシリコンスチーマーにおける“あるある”ではないだろうか。


ジャガイモがマッシャーで潰せる柔らかさになるまでの間、
玉ねぎ半分をみじん切りにする。
繊維の方向に合わせ千切りをして、その後90度傾けてまた同じ作業を繰り返す。
小さな四角を沢山作って、木っ端微塵になる。

それにしても玉ねぎを切る時の感触は、やはりたまらない。
漫画であれば「ザクザク」という文字がそこらへんに必ず書かれるであろう、豊かなサウンドを鳴らし、出来上がる晩餐へのモチベーションを確かにブーストさせてくれる。

ジップロックに入れていたひき肉を冷蔵庫から取り出し、切った玉ねぎと共に、醤油と酒と砂糖で茶色く炒める。
ジューーーっと油が少しばかりはねながら火が通る様子は、夏の手持ち花火のような、ささやかな華麗さを感じる。

コロッケは牛か豚の挽肉か、牛豚合い挽き肉を使われることが多いが、
今回冷蔵庫にあったのは鶏挽肉で、
普通のコロッケより少しスッキリめで淡白な味わいのコロッケになりそうだ。

挽肉と玉ねぎを炒めただけで、もう十分美味しいでは無いか、とつまみ食いをする。
もう炒め料理にこのままシフトチェンジをしようかとも思ってしまう。
ここでひと仕事を終えた気になってしまうのだが、コロッケはここからが本番。
今やっとスタート地点に立ったと言っても過言では無い。

柔らかくなったジャガイモの優しくまろやかな香りがぱっと湯気とともに広がる。

こんもりとした肌色の山々を、マッシャーで潰していき、先程炒めた玉ねぎと挽肉を投入して混ぜる。
ハンバーグを作る時のように、空気を抜きながら俵型に成形していく。

ここでやっとコロッケという物の片鱗というか輪郭がうっすら見えてくる。


小麦粉と卵液とパン粉をそれぞれ別皿にセッティングし、
小麦粉、卵液、パン粉の順で丁寧に付けていく。

コロッケを作るのになかなか重い腰を上げられないのは、この過程で洗い物へのハードルが上がってしまうことにも起因する。

やっとここらで、油の海へ投入する。
今回は油を沢山使いたくなくて、少量の油で揚げ焼きするので、広大な海というよりもここは浅瀬だろうか。

視覚にはきつね色に変わりゆく俵を、
聴覚には文句なしのジュワーっというSEに、
嗅覚には食欲をそそる香ばしい鮮やかな暖気、
触覚にはトングで掴んだ時点で既にわかるサクサク加減。

揚げ終わったコロッケは湯上りのように火照っており、
艶のあるその見た目は美しい。


ソースは、中濃ソースとケチャップを1:1で混ぜたものが私の実家のコロッケでは定番だった。

ソースを乗せて口に運ぶやいなや、
舌鼓を打っては、また口に運ぶ。
サクサクとホクホクのコラボレーションが実に素晴らしい。
コロッケというのは、食べるとホッコリする。
唐揚げやエビフライやトンカツなどの他の揚げ物には感じない、ほっこり感や安心感がたしかにそこにはある。なんだか落ち着くのだ。

もし何かで落ち込んでいる時に、
ホカホカのコロッケを作ってもらい、
目の前に出されたなら、食べながら安堵の気持ちで少し涙がちょちょぎれるかもしれないなどと漠然と思った。
でも泣きながらジャガイモを食べたら、絶対にむせてしまうからやっぱり食べなくていいや。

コロッケといえば、実家の母が作るデカ俵コロッケも良いけど、
近所のお肉屋さんに売っていたコロッケが久々に食べたくもなった。


少し過程の多い料理というのは、料理をしている間、過程が進む毎に、様々な思いが錯綜し、過去の思い出が駆け巡る。


作り始めるまではなかなか時間がかかるものだが、対価は美味しさとともに、思い出の振り返りや五感を刺激してくれるエンターテインメント性によってキャッシュバックされる。

普段毎日同じように繰り返しの日々を過ごし、
自分は空っぽな人間なのかとネガティブになることもあるのだが、
こうやって何か料理を作ることで、
思いや感覚を刺激されて、ちゃんと揺さぶられていることに安心し、自分という人間も捨てたものじゃないと思う。


さて、今日は帰って何を作ろうか。



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