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マーク・フィッシャー/トイ・ストーリー 操り人形、ドール、ホラーストーリー:トイストーリー3とトーマス・リゴッティの新刊

Freizeよりマーク・フィッシャー(Mark Fisher)の"Toy Stories Puppets, dolls and horror stories; Toy Story 3 and Thomas Ligotti’s new book"の翻訳。

操り人形、ドール、ホラーストーリー:トイストーリー3とトーマス・リゴッティの新刊


「多くのホラーでは、その不気味な存在感を物語に与え雰囲気を演出する目的を持った脇役やエキストラのような様々な登場人物【フィギュア】がいますが、一方で本物のボギーは全く別のものです。操り人形(パペット)、ドール、そしてその他の人間の戯画はしばしば子供部屋の端に掛けられていたり、おもちゃ棚に置かれてゲスト出演する[・・・]人間の形を模したものは、背景として、あるいはちょっとした役者として、象徴的な価値を持つ。というのも、彼らは別の世界とつながっているように見えるからだ。その世界とは、私たちが時々感じる場所の有害で無秩序さの全てであり、私達自身の世界のモデルとなる世界である。私達自身の世界とは私達が静かで安全であると信じなければならない世界であり、少なくとも偽物の人物を本物と見間違えることはないであろう世界である。」

 ホラー作家トーマス・リゴッティ(Thomas Ligotti)は、彼の最近の著作『人類に対するの陰謀』(The Conspiracy Against The Human Race (Hippocampus Press, 2010))の中でこのように書いている。この本はフィクション作品ではない。そうではなく、これはプロの哲学者の作品にしばしば欠けている形而上学的なハングリー精神によって突き動かされた良い意味でアマチュア哲学の作品なのである。リゴッティは、アカデミックな哲学者が学問的な瑣末事に没頭するのを好んで敬遠するような問題に恥ずかしげもなく立ち返っている。なぜ、無ではなく、有があるのか?我々は生きていて良かったと思うべきなのか?後者の質問に対するリゴッティの答えはきっぱりと否定的である。21世紀初頭の文化に蔓延する明るい活力主義や無意味な軽薄さの雰囲気とは対極にある冷たく冷静な真面目さに取り憑かれた『人類に対する陰謀』は19世紀の小冊子のような雰囲気を持っている。

 人形(パペット)はリゴッティの作品のライトモチーフの一つだが、それらが引き起こす恐怖は、彼らの悪意や、我々が見ていないときに彼らが密かに動いているのではないかという疑念から生じるものではない。むしろ、人形(パペット)は、リゴッティが『人類に対する陰謀』の中で繰り返し述べている、宇宙そのものの「悪意に満ちた無用さ」の使者なのだ。ペイントされた顔のマリオネットは、意識の恐怖の象徴であり、リゴッティにとって「悪意に満ちた無用さ」を知覚される道具であり、そしてすべての苦しみを世界にもたらすものなのである。人形(パペット)は、童話にも怪談にも等しく属する象形である。イアン・ペンマン(Ian Penman)は、最も有名な人形物語であるカルロ・コッローディの『ピノキオの冒険』(1883年)が、「ほとんど信じられないレベルの残酷さと苦痛を含んでいる(中略)虐待の告発である。投げられたハンマー。燃やされた足。薪にされる子供たち。つまり、無垢な薪。好奇心は脳震盪と誘拐で報われる。首吊り、切断、窒息死。ピノキオの恐怖にヘビが大笑いし、動脈を破って死んでしまう。ピノキオは通学路で教科書を売り、大道芸に参加する。つまり、教育を忘れ、マリオネットになる。踊る阿呆。見習いゴーレム。悪性の道化師。中二病、カスラート。」(ペンマンの発言は去年私が編集したマイケル・ジャクソンの本に寄稿したものである。そして、ジャクソン自身の物語はキッチュとゴシック、人形と操り手が頻繁に逆転するものである。)と書いている。

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では理論家ジョヴァンニ・ティッソ(Giovanni Tiso)は『トイ・ストーリー』に登場する「ピノキオ」の響きに注目した。マルクス主義者のリチャード・シーモア(Richard Seymour)

(【http://www.leninology.co.uk/2010/08/chattel-story.html?m=1】←埋め込みができないためこちらのURLをご利用ください)にとって、「『トイ・ストーリー3』は、自由がいかに商品化を通して達成されるか、そして「被支配者の同意」がいかに隷属を喜んで受け入れることに等しいか[略]すべての人、すべてのものはトイ・ストーリーという物事の枠組みの中でその場所を持つのだ。その枠組みとは、おもちゃを底辺とした商品の階層構造であり、所有者に従属し、献身するものである。それでも、私が前に主張したように

(↑リンク切れ)、存在論的水準では、映画トイ・ストーリーはある種の「もつれた階級構造」を構成している。映画で描かれるおもちゃたちは、映画のフィクションという「存在論的に劣ったレベル」にしか存在しないのではなく、映画館の外で買うことができるという意味でリアルなのである。リゴッティでは、人形と人形劇は、このような存在論的ヒエラルキーのもつれをしばしば象徴している。操られるマネキンという「劣った」レベルにあるはずのものが、突然主体性を獲得し、更に恐ろしいことに、人形遣いというおそらく「優れた」レベルにあるはずのものが突然マリオネット劇場に引き込まれてしまうのである。リゴッティは、「人間が人形(パペット)のように対象化され、我々の中の不気味な場所に過ぎないと思っていた世界に入り込むことは」実に恐ろしい運命であると書いている。「自分がこの不吉な領域の囚人であり、人間あるいは我々がどんな定義によっても人間であると信じるものの土地を眺める複合的なメカニズムに還元され、なんとそこから追放されるとは何という衝撃であろうか。」リゴッティの場合、究極の操り人形師が糸を引いているのか、それとも糸がほつれて盲目的で無意味なカオスになるのか、どちらがより恐ろしいのか定かではない。

 ティッソ

は「トイ・ストーリー」シリーズに登場するおもちゃたちの欲望に、ある特異なものがあることに気づいた。彼らが最も好きなことは子供に遊んでもらうこと。しかし、そのような時彼らはぐったりと無気力である。彼らが人前に出るたびにそうであるように。彼らの輝きは失われ、手は虚ろになる。まるで、トイ・ストーリーの映画のメッセージとリゴッティの悲観的な小冊子が韻を踏んでいるかのようだ。意識は、慈善的な神の代わりに親切なおもちゃ屋が与えてくれる祝福ではなく、憎むべき呪いなのだ。



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