やる気を必要とせずにこなせる量

どうしてもやる気の出ない日、というのがある。
なんとなくダラダラしてしまうだけで、体調が悪いわけではない。
ただ、いつものルーチンに移るほんの少しの気力が湧かず持久力も期待できない、かといって代わりに何か充実した娯楽に耽るわけでもない。
「やらなくては」という焦りと、すべきことをできない自分を責める重たい気持ちを抱えたまま、スマートフォンをなんとなく見るともなく見て数時間が過ぎたりする。

こんな日には思い切りダラダラしてしまうのも良いと思う。
気力が湧かない日というのは本人が「サボり」だと思っているだけで、実は気づかない心身の不調や慢性疲労が隠れていることもある。
私の場合、遊ぶこともできず、すべきことをすることもできず「膠着状態」に入ってしまった時は、自責の念を少しだけ払拭し一日をせめて罪悪感の少ない状態で終われるように「5分だけ」何かするようにしている。
本当は、洗い物をして買い物に行って一週間分の常備菜を作って部屋の掃除と洗濯をしてからジムに行って半身浴して本を読みたい——けどひとまず洗い物だけしたら自分を褒めてあげよう。
そんな感じで重い腰を上げると、イヤイヤでも動き始めたことをきっかけに他のこともできてしまう時もある。本当に5分間しか活動できず洗い物しかできない日なら、それは体調不良ということにしてしまう。そうして免罪符を発行すると、全力のダラダラ生活へと戻っていく。
初動さえあればそのまま日常に戻れる日なのかどうかを試す意味でも「5分間のお試し」は有用だと思う。自分の心を軽くし、労うためにも。

そんなことを続けていくうちに、「やる気」がない日でも自分はここまでならこなせるんだなというのが少しはわかってきたように思う。
やる気はない。けれど5分動くうちになんとか他のことにも手をつけられてすべきことのうち幾つかはこなせた、という日——そんな日にでもこなせたことは、私が「やる気」をどうにか振り絞って無理をして行わなくても良いタスクとその量だと考えている。
そう考えると、「いつもしていることができない自分」を責める日ではなく、「いつもは頑張りすぎていた自分」を労う日になる。
「やる気」や「気力」なんてものに頼らずにこなせるルーチンをそもそも作らなくてはならなかったのだ、と反省するきっかけになる。

辛いことも、やりたくないことも、習慣の中に「これなら苦なくできる」を紛れ込ませることで次第に無理だと思っていたことまでできたりする。
けれど結果を急いだり自分の体力を過信したりすると、苦しいことを続ける習慣を自分に強要してしまいがちだ。
成長を実感するのは大事だし楽しいが、その実感のために無理を重ねては意味がない。

習慣化には最低20日ほどかかると言われている。そこまではどんな小さな努力も多少の負荷を感じるかもしれない。
けれどなんとか頑張って20日間続けられたことが、20日経っても一向に楽にならず辛いままなら量もしくは方法を何か変えるべきかもしれない。

日々何か少しでも楽になったり、成長したいと望む中で、自分の機嫌の取り方と甘やかし方も、年々取るのがうまくなったら良いと思う。

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