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映画「スウィング・キッズ」ー必見!圧巻のタップダンスと主人公の眼差しが訴えていたこと

(写真は、eiga.comから転載)

それは、人間の心情や思想に深く関わるものとしての芸術ー音楽、映画、演劇、絵画、そしてダンスもーは、政治に取り込まれてはならないということだ。  

「彼はただダンスがしたかっただけなのだ」ただそれだけなのだ。

このドラマはnote投稿者のお一人に薦められて視聴した。見てよかった。強く心に残るドラマだった。私的には、「パラサイト」より深く心に残った。

圧巻のタップダンスと北朝鮮軍の主人公の魅力的な眼差しはもちろんなのだが、その主人公が西側のダンスに強く惹かれる自分とそれを禁ずる自分の属する国家との狭間で葛藤し、最後には自分の願望が2つの国家体制により押しつぶされていく悲劇に、より心が動いた。

「ただダンスがしたい」という個人の思いが、思想を異にする2つの国家に押し潰されてしまった悲しみに・・・・•

国家を構成するのは、様々な感情や思想をもった人間である。だが戦時下という特殊な状況にあると異端者や少数者は、ナショナル・アイデンティティーという名の下に排除される。このような事態は人間の歴史の中で数限りなく繰り返されてきた。

このドラマも例外ではなく、朝鮮戦争で捕虜になった中国人、北朝鮮人そしてそれを管理するアメリカ人とが、巨済島にある捕虜収容所を舞台に繰り広げる支配被支配の下で、北朝鮮の同国人による異端者への残酷な糾弾、アメリカ軍内部の人種差別、収容所の外の飢餓、貧困、性差別・搾取などが絡む物語である。

タップダンス発表の冒頭、チームのリーダーはこのダンスのタイトルは、

“F@cking Ideology!”(イデオロギーなどクソくらえ)

だと告げる。その言葉には、ダンスチームのメンバーそれぞれの思いが凝縮されている。みんなそれぞれの出自や思想などに関係なく、ダンスがしたかっただけなのだ。チームの1人が言う:

「資本主義や共産主義はアメリカとソ連が勝手につくったものだ。人を殺し、国を分ける思想がバカげている。俺は今が一番まともだ」

最後は、アメリカという支配者にダンスチームの3人が射殺され、主人公の青年は足を撃たれるという凄惨な結末で終わる。足を撃たれるシーンは、この青年の夢が打ち砕かれてしまったことを象徴的に表現していて、彼の涙と共に心に強く残った。

ハンナ・アーレントがエッセー「真理と政治」で言っているそうだ。
「芸術家は、真理を告げる者である。政治は権力者によるうそをばらまくことで、大衆を操作し動員してきた。これに対し、芸術家は政治の外に立って、人びとが真理とうそを区別するための種をまく」と。

(2022年5月19日付朝日新聞 政治季評 少数者・異端者を脅かす戦時に芸術は真理知る種をまく 重田園江から引用)

国家の主義主張を急進的に信奉し、異端者や少数者を排除するのは危険なことなのだとこのドラマは訴えている。

資本主義思想の国だろうが、共産主義思想の国だろうが好きなものは好きなのだ。そして美しいものは美しく、思想に関係なく人びとに感動を与えるのだ。だが閉塞された異常な状態に置かれたとき、我々の意識はいともたやすく誘導されてしまう、もろいものなのだということも痛感させられる。

そして何より、日本人がこの朝鮮戦争を語るとき忘れてはいけない事実がある。

敗戦で疲弊していた日本経済に活況をもたらしたのがこの戦争だからだ。アメリカの対日占領政策によれば、「日本を満州事変当時(1931年代)の生活水準にして置く」という懲罰的な占領方針だった。

それがこの東西冷戦により、日本とドイツを世界の工場にするという方針転換がはかられ、高度経済成長の名の下、武器をハンマーに持ち替えて日本人は経済活動に励んだ。結果、”Japan as Number One”などと言われるまでになったということを。

歴史の大きな流れの中でみれば、日本は軍国主義から”民主主義国家”に移行したことになるのだろう。が、日本がかつて侵略し、植民地にした朝鮮半島では、いまだに同じ民族が分断されたままである現実が残されていることを忘れてはならないだろう。そして、日本はその現実にしっかりと向き合ってきただろうか?






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