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ひとりで死なせてしまった

ずっと喉に突き刺さった小骨のように消えない痛みがある。昨冬亡くなった上野さんのことだ。

上野さんはごりごりの北九州男子。小柄で細身だがとにかく酒を浴びるように飲んだ。関東出身の私が標準語を喋ると「しゃあしい、東京もんは」と文句を言った。ドスのきいた北州弁で「きさん、ぶちくらすぞ」と言われたこともあった。私が北九州弁を覚えるようになったは今思えば上野さんのせいだったと思う。

上野さんには常識というものが通じない。上野さんの世界において上野さんがルールのすべてだった。生活保護を受け取って失踪したこともある。注射が嫌いで点滴を引っこ抜いては暴れる。インフルエンザに罹っても酒を探して近所を徘徊する。好きなものしか口にせず、嫌いなものは床にぺっと吐き出す。癇癪を起すと「ええい、くそっ」と怒鳴って、手当たり次第に物をぶちまける。ほんとうにどうしようもない人だったけれども、自分に正直でなぜか憎めない人だった。

やんちゃな一面ばかり語られがちだった上野さんだが、病院の送迎や看病など、私が彼に何かしたあとは照れ臭そうに「ありがとう」「すみません」といった。憎まれ口を叩いても礼を伝えることは決して忘れない人情深い人だった。そんな上野さんの人間臭いにギャップに私はどんどん惹かれていった。ひとりの人間の人生に伴走するということ、その大変さも面白さも両方教えてくれたのが上野さんだった。

ある日、上野さんは高熱を出して倒れた。私は救急車で彼に付き添った。案の定、診療台のうえで彼は大暴れした。私は「大丈夫ですから。私がついていますから」となんとか彼を諫めて入院してもらった。しかし、なんとその翌日彼は自主退院して施設に帰ってきてしまったのだ。今となっては反省するばかりなのだけど、そのとき私は彼のことをこっぴどく叱ってしまった。肺炎がひどくなったら死んでしまうことを繰り返し伝えた。その日の夕方には上野さんの熱がまたあがってきてしまったので、私は受け入れてくれる病院を探して再度入院してもらった。

ヘビースモーカーだった上野さんはこれまで幾度も肺の病気を繰り返しており、今回も1~2週間の入院で施設に帰ってくるだろうと思った。大きな誤算だった。肺炎が治っても生活リハビリがなかなか進まず、上野さんは帰ってこなかった。ちょうど、その頃コロナの影響で病院は面会謝絶になったところだった。看護師さんに状況を確認しても「鬱のような状態でリハビリの指示が入りません」との回答しか返ってこなかった。私の知っている上野さんはそんな上野さんではなかった。何とかエールを届けたいと思ったものの、会えないままに3か月が過ぎた頃、訃報が入った。

なんの時だったか忘れたが、上野さんと車に乗っていたときに、「アパートにおったときは、ぼーっと独りで天井をみてるだけだった。なんやかんや施設は賑やかでええわ」と言っていたことを思い出す。悪態ばかりついているけれども、なんだかんだここでの生活を気に入ってくれているんだなと嬉しかったことを覚えている。

人生の最期、上野さんは病院のベッドでひとりで何を考えていたのだろうか。天井を見つめながら寂しくなかっただろうか。私は上野さんをひとりで死なせてしまったことを悔いている。今思えば、1回目の入院からの脱走はきっと上野さんの本能的な怯えだったのに、私は上野さんを病院のベッドでひとりで死なせてしまった。

「孤独死をなくす」という大義名分のために一生懸命働いてきたのに孤独死を生み出してしまった現実が重くのしかかる。色んな人が「人生にいろんなことがあった上野さんだったけれども、最後は施設に入れて孫のような存在もできて孤独じゃなかったと思うよ。幸せだったと思うよ。」と言ってくれたけれどもそんな耳当たりの良い言葉も絶望した私には届かない。

私と上野さんは似たもの同士だった。上野さんは孤独をなによりも嫌う人だった。自室にはベッドがあるのにいつも事務所のソファーで口を開けて昼寝していた。誰ともうまく人間関係を築けないのに人とつるむことをやめなかった。デイサービスには悪態をつきながらもいそいそと出かけた。

孤独は人を蝕む。もしコロナじゃなかったら、面会出来たら、あのとき入院させなかったらと何度も繰り返し思う。ひとりじゃなかったら乗り切れたことも、ひとりだと命を失ってしまうほどに人間は脆い。

あれから半年がたったが上野さんの喪失の穴は埋まる気配はない。上野さんだけではない、これまで死別してきたすべてのおいちゃん達の喪失感を未だに私は未だに抱えている。もしかしたら、この喪失感は埋まることはなく一生抱えながら生きていくものなのかもしれないと思い始めているところだ。

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