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中国が愛を知ったころ

張愛玲(Eileen Chang)という作家を知ったのは、アジアのフェミニズム文学について調べていた時だった。
中華圏ではとても人気のある作家で「張迷(張狂い)」という言葉が使われるほどらしい。本人が英語でも執筆したため、翻訳されたものと合わせて英語で読める作品が多数あり英語圏での知名度も高い。その人気から何作も映像化されていて、その一つが映画「ラスト、コーション」だ。

1920年に上海で生まれた彼女が作家として活躍したのは日本占領下の上海、中華人民共和国の成立後の香港、そして移住先のアメリカである。
当時の中国といえば、列強の租界(外国人居留地)があった上海と英国の植民地だった香港は西洋の影響が色濃く、戦争中には日本に占領された。戦後も国共内戦や文化大革命と混乱が続き、海外へ移住する人も多かった。張愛玲もそんな「異国の支配に伴って様々な文化が混沌とした場所で、価値観の変化が激しい時代を過ごした」人の一人で、その影響は作品からも感じられる。

張愛玲の小説を読んでみたいと思って困ったのは、邦訳と英訳どちらで読む方が原文で読む感覚により近いのか、ということだった。邦訳の場合、書籍によっては翻訳の質への評価が分かれているようだったけれど、英訳では当然ながら漢字が全て消えてしまっている。人名や地名は漢字で読みたい。
どうしようかと思っていた時に目についたのが岩波書店から出ている『中国が愛を知ったころ 張愛玲短篇選』だった。2017年と比較的新しい邦訳作品で近藤聡乃さんの装画が素敵だったのでこれに決めた。

本書は三つの中編作品が収録されている。

「沈香屑 第一炉香」は作家のデビュー作。香港に住む裕福な伯母の元に居候するようになった少女が社交界デビューし、魅力的だが軽薄な男に恋をする。最初は冷静でいられると思っていた彼女はだんだんと先の見えない関係に嵌ってゆく。
「中国が愛を知ったころ」はある男の恋愛と結婚を巡る物語。当時は自由恋愛が最新の概念で、恋に落ちた相手と交際し結婚までしてしまうのはとても尖った行動だった。そんな流行の最先端を実践した男に待っていた結末とは。
「同級生」では戦時中上海の女学校で同級生だった二人が紆余曲折を経て移住先のアメリカで再会する。かつての友人が自分よりはるかに社会的地位が高くなった時の、二人の間の微妙な距離感の描き方が秀逸。

この短編集の題材だけ抜き取れば、「人生を棒に振るような恋」「煌びやかなドレスを纏ってガーデンパーティー」と私とは縁遠いように思った。けれどこの短編集読み終えるとすぐに張愛玲の他の作品も手に取っていた。何がそんなに気に入ったのかと聞かれると答えるのが難しい。中華と西洋の文化が混じりあった上海と香港にある独独の美的感覚。日本軍侵攻や共産党台頭の陰を感じながらも続く生活と恋。家柄や容姿、財産の有無などで互いをさりげなく値踏みする眼差し。そうした描写が美しかった。描写の対象や内容が華やかなのも確かだけれど、文章そのものに華があるのだ。

うまく伝わる自信がないけれど、谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読んだ時の読書体験に近いと感じた。あらすじにはピンと来なくても、読み始めると文章そのものの華やかさに感嘆していつのまにか読み切ってしまう。

韓国語の小説やエッセイは日本の書店で見かけるのが当たり前になってきた。本国で最近出版された作品が邦訳されて並んでいることが多いけれど、十年以上前のものや古典と呼ばれそうなものまで過去の名作の邦訳も徐々に出てきている。
華文文学も同じように最近話題の中華SFを皮切りに張愛玲のように日本ではあまり知られていない古典も新訳が出てもっと広く読まれるようになればいいな。(というかまず自分が読みたいだけ。)

追記1:この本の翻訳者、濱田麻矢さん訳による文珍「星空と海を隔てて」が「文藝」2020年秋季号「特集:覚醒するシスターフッド」で読める。私は原文を読めないので翻訳の正確さや適切さについては何も言えないのだけれど、濱田さん訳の作品は張愛玲も文珍もとても面白く読んだ。日本語の文章が読みやすいし、作家の文体も(わからないので想像ですが)よく出ている邦訳なのだと思う。翻訳家の方々のお陰で素晴らしい外語作品に出会うことができるので本当にありがたいです。
文藝2020年秋号は書店ではもう在庫がないけれど、大きな反響があったようで、この特集掲載の小説は単行本されている。文珍「星空と海を隔てて」も収録されてるようです。
https://www.amazon.co.jp/%E8%A6%9A%E9%86%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%89-%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/4309029434

追記2:結局英訳も気になったのでこちらも読み始めた。これもカバーが素敵。読み終えたら感想を書きたい。
https://www.amazon.co.jp/Love-Fallen-Review-Books-Classics/dp/1590171780/ref=sr_1_16?dchild=1&qid=1615006771&refinements=p_27%3AEileen+Chang&s=english-books&sr=1-16




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