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軽んじられた子どもの苦悩「わたしに無害なひと」

以前この記事で取り上げた「わたしに無害なひと」 を読み終わった。

はじめ、タイトルに自分の心を見透かされたような気がしてひやりとした。他人を「無害なひと」と言い切れることに相手を見くびっている印象を受けつつも、それは私にもある感情だとわかっていたからだろう。
文中で「無害なひと」と出てくる作品「告白」の文脈ではたしかに、相手を自分と同じだけ、あるいはそれ以上の痛みを抱える人間として扱っていなかったことの表れとしてこの言葉は使われている。
一冊読み終わって、全作品に共通するテーマとして「無害なひと」とはなんだったか考えると、別の解釈もあるのかなと思う。「無害なひと」とはもはや記憶の中でさえも自分を傷つけられない人なのではないか。
自分が傷つけられた記憶とは折り合いがついたからこそ、過去を振り返って関心があるのは「誰かを傷つけていた自分」で、「自分を傷つけた誰か」ではないということかな。
罪悪感とか後悔とかそういうはっきりした名前のついた感情ではないけれど、「あの時、もっと別の言い方や接し方があったのかもしれない」と今になって思う記憶にまつわる短編集。
全篇を読んで印象的だったのは「大人の顔色を窺って生きなければならなかった子ども」だった主人公たちの苦悩だ。

「砂の家」はオンラインコミュニティで知りあった高校の同級生三人、モレ(砂)、コンム(空無)、ナビ(蝶)の物語である。画面上で心の中や気に入った音楽を共有してきた三人は、高校を卒業し実際に会って話すようになってからも互いをハンドルネームで呼び合う。コンムと物語の語り手であるナビは肉親から精神/肉体的な虐待を受けながら大人になり、一方のモレは経済的に余裕があり愛情溢れる家族に恵まれ一見何不自由なさそうだ。けれど三人とも驚くほど自分と周囲の人の心の動き-人間の弱さやずるさ、残酷さを-鋭敏に感じ取る。それは生まれ持った感受性の鋭さだけによるものではなく、彼らをそう育てた環境があったのだということが物語からは垣間見える。

 私は、私を少しも理解しようとしない人間のことを理解しろと強要されていたのだと。
 大人になってからも誰かを理解しようと努力するたびに、実はその努力は道徳心からではなく、自分が傷つきたくなくて選択した、ただの卑怯さではないのかと自問した。どうにかして生き残るために子供のころ使っていた方法が習慣で慣性となり、今も作動を続けているのではないだろうか。思慮深いとか大人びているという言葉は適当じゃなかった。理解、それはどんなことをしてでも生きてみようと選択した方法だったのだから。(ナビの台詞。「砂の家」133頁)

他人を理解するってどういうことなのだろう。他人を愛するってどういうことなんだろう。大人たちの悪意や身勝手な愛に翻弄された彼らは自問する。

 俺は人が人を愛するってことがわからない。もしかしたら愛せるかもしれないけれど、それは恐ろしい行為、予測できない怖さのある行為だと思ってる。人は愛っていうアリバイがあれば、なんでもできると考えているのだろうか。(コンムの台詞。「砂の家」174頁)

「愛しているから、大切だから」と言う大人に傷つけられて大きくなった彼らは、自分はそうなるまいと思う。けれど、どれだけ気をつけていても、誰かを傷つけないで生きるのは難しい。

 絶対に傷つけたくない人を傷つける可能性もあるという恐れ。それが自分の独りよがりにもなり得るという事実は、私を用心深い人間にした。あるときからまったく人に近づけなくなり、遠くでもたもたするだけになった。私の引力が誰かを引き寄せるかもと不安で後ずさりした。
 わかっているのに。互いを傷つけながら愛するのだとも、完全だからじゃなくて、不完全だから相手を愛するのだともわかっているのに、体がそう反応した。 (ナビの台詞。「砂の家」203頁)

どんなに感受性が豊かな人でも、時間がたってからでしか気づけないことがある。そもそも過去を振り返り、当時の相手の気持ちや事情まで慮り、自分の至らなさを考えるなんてしない人はきっと多い。それはその人たちが悪い人だからではなく、自らの過去を顧みて自分が傷つけた相手に思いをはせることを、何度もしながら生きるのはとてもつらいからだ。
少し鈍いくらいが生きやすいのだろうし、だから私たちも普段はそうしている。あるいは自分は鈍いのだ、気づいていないのだと自ら言い聞かせている。
作中の彼らのように周囲の人の言葉や行動を何度も咀嚼して考える人は「面倒くさい」「考えすぎ」「繊細過ぎる」と言われるのかもしれない。たしかに、かつて子どもだった彼らを軽んじた大人の多くは、彼らほど「誰かを傷つけること」に敏感ではないだろう。だからもがく彼らが独り相撲をしているようにみえて読んでいて虚しく感じることもあった。

作家チェ・ウニョンはこのどうすることもできないしんどさを抱えたテーマを全篇を通じて繰り返し語り、はっきりした出口も示さない。けれど読み終わった後、不思議と暗い気持ちにはならなかった。
感じたのは、本当は自覚していた自分のずるさと傷をなかったことにしてなんとか生きていたこと、その名前のつかない心の動きを物語として読める安心感だった。
この本がよく読まれて邦訳まで出るということは、この物語は少なくない人たちにとって思い当たる節のあるものなんだ、と気づくとちょっと救われる思いがした。

ここまで書き連ねても、この本の魅力をうまく言葉にできた気がしない。言い訳のように聞こえるだろうけれど、短い言葉でまとめるのが難しい心情を写し取った作品ばかりなのだ。
なので、私の拙い感想文や他の方のレビューを読んで少しでもピンと来た人にはぜひ読んでもらいたいと思う。







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