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仕事は体育の授業に似ている 運動神経が悪いということ Vol.19

スポーツ観戦が趣味のくせに、体育は嫌いだった。学生時代の体育の授業を思い返せば、苦々しい記憶ばかりだ。中高一貫の男子高に通っていた3年間は中学からの内部進学者が幅を利かせていて、体育の授業中も彼らは我が物顔で振る舞っていた。運動神経の悪い私には、大体の人が難なくこなせることも出来ない。ソフトボールは山なりのフライが捕れず、バレーボールでサーブしようと思えば顔面に当ててしまう。そんなとき、体育が得意なクラスメイトには、たびたび辛く当たられた。罵声を浴び、舌打ちされたり、無言でガンを飛ばされることもあった。そんな目に遭っても「おいしい」と思えるメンタリティが備わっていれば、気の利いたリアクションのひとつでも返せたのだろうが、真に受けて落ち込む態度が、彼らがこちらへ抱く嫌悪感を増長させてしまったのだろうか。

体育でひどい仕打ちを受けるたび、皆こんなことで何をムキになっているのかという疑問とともに、ひどく救われない気分に苛まれた。なかでも辛いのは、こちらの四苦八苦の様子が、あたかもふざけて手を抜いているかのように誤解されることだ。「やる気あんのか」「ちゃんとせぇ」このような声は、生徒に限らず、体育の先生からも発せられることがあった。投げたボールがすぐ近くで落下し、平泳ぎすれば手と足の動きが揃って前に進めないのは、断じてわざとではなく、ひとえに運動神経が悪いせいだ。誰も好んで醜態を晒しているわけではないのに、恥をかいたうえ責められては、立つ瀬が無い。「やる気」とやらが解決してくれるなら学びたかったが、運動神経が良い生徒の代表たる先生たちは、何も教えてくれなかった。身体的な有能さと、無邪気に熱中する意欲。それらを備えた者だけが楽しんで、その輪に加われない者は蔑ろにされる時間。世の理不尽や冷酷さを教えるという意味で、体育とは重要な授業なのかもしれない。

能力不足は認めざるを得ない。けれど、決して悪意は無い。それなのに咎められてしまうから、体育の授業は苦々しかったのだ。いくら不満が鬱積しても、能力に優れ意欲旺盛であることが「正義」とされる時間にあっては、黙って耐え忍ぶしかなかった。いずれ大人になれば、体育の授業など受けなくていいのだから、こんな苦労からは解放されると思っていた。そんなおぼろげな希望が無惨に打ち砕かれているのが、就職以来の15年あまりだ。きっちり、しっかり。自分なりにやっているつもりでも、なかなかうまくいかない。「"つもり"じゃダメなんだよ、仕事は!」新人の頃に浴びた叱責の言葉が、いまも胸に突き刺さる。失敗など望んでいるはずもないのに、どれほど繰り返してきただろうか。恥をかいて、怒られて、「では、どうすればよいか」は教えてもらえない。できる人たちの蚊帳の外に置かれ、不満の声もあげられない。体育の授業は、仕事を通して、現在に至るまで脈々と続いているのだ。

楽しいラリーを途切れさせ、アウトにできたと思ったバッターを出塁させる。運動神経の悪い私は、優れた人にとって、さぞかし邪魔なのだろう。私のような内向的な人間は、苦手なことと向き合ったとき、いつにも増して自分の殻に閉じこもってしまうもののようだ。少なからずパニックに陥り、助けてほしいような心境でも、素直に表現するのが難しい。傍目にはそんな様子が、当人の困惑に反し、妙に冷静ぶって、ふてぶてしい印象さえ与えてしまうのだろうか。「人を怒らせるのが得意やな、お前は」かつて、職場の先輩からはそんな皮肉を向けられたこともあった。週末が束の間に過ぎ去ると、また授業が再開する。優れた人の機嫌を損ねないよう、ボールをそつなく捌き、意欲的に取り組まねばならない。体育なら週に数時間だったが、この授業は一日中、何十年も続いていくのだから、もっともっと苦々しい。





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