宿題

子供の宿題について思うことメモ

コウはちょこちょこ宿題などのノルマ的な作業をサボります。サボるというよりは、先送りを続けた結果本当に忘れてしまったり、「今やりたいこと」で頭をいっぱいにした結果そもそも意識に上っていなかったりするパターンが多いのが実情かもしれません。

勉強が嫌いとか宿題が倒れそうなほど嫌だとかいう訳ではないので、基本的に母親がついていればやります。(気力体力が限界にきている時は除く。)

ということで宿題について考えたのでメモしました。


宿題に対する責任の所在が曖昧な気がする


 →「宿題は本人の責任であると同時に親の責任である」という状況があるように思う。それは責任の所在を曖昧にするのではないだろうか?

 ・実際親には「子供の宿題に対する意識を促し提出させる」という責任があるかもしれない。けれど、そのことが「宿題をしなかった本人の責任」をボカすことになっていないだろうか。

 ・人は相互に影響を与え合って存在しているので、厳密に言えば責任というものはどこまでも薄まり広がっていくものだと思う。なので責任に「当事者」という属性を与えて、何の当事者なのか考えてみることにする。

 ・仮に子供を「宿題をする当事者」としてみる。親は「子供に宿題をやらせる当事者」なのかというと、少し違うように思う。親は「宿題を我が事として捉えるように子供を育てる当事者」なのではないだろうか。

 「親がやれと言ったから宿題をする」というのは当事者性に欠けるように思うし、宿題をやらないことを子供が選んだ場合も「親が自分をそう育てたからだ!」と言うようでは自他の分離はできているのかその後の人生が少し心配だ。「親はちゃんと宿題の必要性を説いてくれたが自分は宿題をしたくない」のであれば、そこには「それはどうしてなの?」という対話を行う余地があるのでいいんじゃないかと思う。

 (極論を言えば「何故親が言ったらそうするの?」という問を投げるだけなのでそういう意味ではどちらも同じと言えば同じなのだけど、それだと何気に『宿題の話』じゃなくなってるので、やはり違いはあるかなと思う。)


 宿題の当事者は子供


→私は、宿題そのものにおける当事者は子供だと思っている。では親は何の当事者なのか?

 ・宿題を「する」のは子供だ。私は「子供を育てること」の当事者なので、子供が宿題に対して当事者意識を持って取り組めるようにサポートするのが私の「する」ことだと考える。

 ・そうなると、「子供に宿題をやらせるのは私の仕事、子供に宿題をさせなければ・・・」と子供から宿題を取り上げることは、子供が宿題に当事者意識を持つことの妨げになり、結果として「宿題をやらせただけ」で本来の目的を達成したとは言えない状況になる可能性があるのでは?

 ※半強制的にやらせることで習慣として刷り込み「当事者化」させるというのであれば、そういう方法もアリかと思う。コウの場合は、結構執念深く「やらされ感」を覚えているタイプなので、そこに気をつけて負担感を減らしつつ進めるといける場合もあるかもしれない。

 

私なりのボーダーライン


→音読や楽器演奏系の「親が聞かなくてはならない宿題」「親がサインしなくてはならない宿題」は、コウが親に協力を依頼するスタイルで。

 ・私は子供が宿題をすることを推奨しているし協力するけれど、宿題そのものに責任は持たないし宿題を 「する」人は子供なので、子供からの協力依頼を受けて親が動くようにしている。基本的には親が子供に宿題をやらせたいのではなく、子供が宿題をしたいので親がそれに協力するというスタンス。

 ・ただし宿題に対して、子供が「必要がない・したくない」と思っていて親が「させたい」と思っている場合は説得が必要になるだろうし、その場合は子供に「親の望みの為に協力してもらう」のか「宿題提出の必要性を分かってほしい」のか、親として自分の望みはハッキリしておくと良いのかなと思う。

 ・コウの場合は「宿題をしたいのだけど集中できない」という場合も多いので、そういう場合は同じくコウからの要請で協力することにしている。「コウが宿題をしたいなら見ることはできるけど、どうする?」「どうしても気が散っちゃうなら、借りてきた本、宿題終わるまで預かっていようか?」と助け舟の形で提案することもある。コウのしたいことを助けるという方針で関わるように心がけたいと思っている。

 

 ※前提として、親が子供に対して「宿題はやるもの」と思っている場合の話なので、子供も親も「宿題は不要」と思っている場合はこの限りではないと思います。子供には教育を受ける権利があるので、子供が宿題への協力を求めているのに親が「宿題なんてやらんでいい!」という場合は、子供の権利を妨げているので何かしらの方法で子供の権利が守られる状態にした方がいいと思う。

 ※宿題に限らず、家事でも勉強でも趣味でも健康管理でも、基本的には同じ構造があるのかなと考えています。

 ※私は、責任というものを「それぞれ個々人が負うものであると同時に、その責任者だけに押し付けることはできないもの。」として捉えています。責任の形や距離感や濃淡に違いはあれど、社会の端っこに参加している以上、社会に起きていることに無関係なことは無いという考えです。

コーヒーを飲みに行ったり本や苗を買ったりすると思います。