子育てにおいては言葉が発達するほどコミュニケーション不全となるようだ

言葉の通じない異国に一人で出かけるとしたら、、、。周りの人とコミュニケーションが取れないのは不安だ。目的地にたどり着けるか、危険な目に合わないか、心配事は山ほど浮かんでくる。

一方、産まれたばかりの赤ちゃんと親は、言語ではコミュニケーションできない。当たり前の話だが。
でも、赤ちゃんは相手を見つめるとか、泣くとか、泣き止むとか、手を掴むとか、笑うとかの行為によって、親はあやしたりお世話をすることによって、親子は気持ちを交換できるように感じている。そこには、言葉の通じない異国にいるような不安感はなく、むしろ気持ちが満たされている。
赤ちゃんが喋れない時期は、親は赤ちゃんを観察したり、働きかけと応答を重ねることによって気持ちを探っている。

少しずつ言葉を発する1歳から2歳すぎのころ。子どもが何かを喋ること自体が輝きに満ちたものなので、内容はなんであろうとも素晴らしいものである。
この頃の子どもはうまく喋れないので、親が気持ちを推測して代弁する。代弁の繰り返しによって、子どもは自分の気持ちを伝えられるようになっていくのだ。
この時期は、言葉を間違えることもよくあるので、親は発言そのものに囚われることなく、置かれた状況から子どもが言いたいことを想像しながらコミュニケーションを図る。

3歳ごろになると、子どもは長文を話せるようになる。
何が欲しい、これは嫌だ、という簡単はことだけでなく、もし〜だったら、とか、はじめに〜して次に〜する、というような複雑なことも喋るようになる。まさにイッチョマエである。

こうなると、親子は言語のみでコミュニケーションが取れるようになる、、、ように見える。が、そんなことはないのである。

子どもがきちんと喋れるようになったと親が認識すると、子ども相手なのに大人相手のような、こちらから過度に忖度することのない関わり方ができると期待してしまう。
すると、言葉に現れない子どもの気持ちに鈍感になってしまうのだ。

ボディランゲージを軽んじて、子どもが不機嫌のときは「どうしたの?言ってくれなきゃ分からないよ」などと言ってしまうし、出来ないとダダを捏ねるときは「手伝って欲しいならそう言って」と、手を差し伸べることにブレーキをかけてしまう。
言語コミュニケーションが理想ほど成立しないことにイライラしてしまうのだ。ほんの数年前までは非言語コミュニケーションで満たされていたのにだ。

不思議というか滑稽なというか、赤ちゃんから子を育てる過程では、言葉を喋れない時期の方が親子の気持ちが通じ合い満たされていて、言葉を喋れるようになるほどコミュニケーション不全にイライラが募ってしまう。
それを回避するには、子どもに大人同様の態度を期待しないことが必要なのだろうか。一体、子どもはいつまで子どもなんだろう。

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