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「選ばれる」ために必要なことは、母と銀の靴が教えてくれた

フリーのキャリアカウンセラー&時々タップダンス講師のCHIHIROです💃🏻✨



【子どもの頃の印象的な思い出は何ですか?】

こう聞かれて、パッと答えられますか?
これ実は、、自分を知るのにとても有効な質問なんです。

例えば、自分の価値観や行動パターン。
子どもの頃の強烈な体験にルーツがありませんか?

時間を忘れて没頭していた遊びは、損得勘定なく心を震わせられることかも。

小さい頃からよく褒められていたことがあれば、それはきっと、生まれながらに持った強み

子どもの頃の思い出を遡ってみたら、社会のしがらみや他人の目に合わせて見失っている、純度高めな自分の姿が見えてくるはずです!


ということで、この先は、わたしの「子どもの頃の印象的な思い出」についてのエッセイです。

5歳の時、初めて銀色の靴を履きました。この経験は、いまのわたしのあり方に、大きな大きな影響を与えています






最近、銀色の靴を探して、連日ネットをさまよっている。

ネットショッピングは本当に便利だ。靴の色だけでなく、靴のタイプやサイズ、素材、柄、紐のあるなし、つま先の形でまで条件を絞り込んで検索出来る。
ついでに、試着して合わなかったら返品できる。返品送料は、店に出向くための交通費より安い。

ただ。
やっぱり、店頭で直接見て、選んで、買いたい。
小一時間くらい、平気でショッピングサイトを徘徊した結果、胸によぎるのはそんな思いだ。

思いもよらない、しかし運命を感じるような、そんな出会いを願っている自分がいる。

「条件にぴったりなものを紹介してくれる便利さ」に、「出会えるか分からない不確かさ」が勝る。不思議だ。

こう感じるのはたぶん、初めて銀色の靴を履いた体験のせいだ。

5歳。幼稚園のお遊戯会で、『オズの魔法使い』のドロシーを演じた。そのときわたしは、3回かかとを鳴らすと願いをかなえてくれる、銀の魔法の靴を履いたのである。


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わたしはおよそ、ドロシーに選ばれるはずのない子どもだった。

人見知りで、臆病で、泣き虫。プライドが高いから、失敗してみんなに笑われることが大嫌い。

花火大会では、人生で初めて聞く巨大な破裂音と、暗闇で母がいないことが怖くて、先生にしがみついてずっと泣いていた。

ダンスも苦手で、アンパンマン体操を踊るのを嫌がり、やはり泣いて母を困らせた。だって上手に踊れないんだもん、と駄々をこねたのを覚えている。

一緒に遊ぶ友達がいなくて春風の中ひとり佇む、なんて、謎に情緒的な時間を過ごした記憶もある。あの風のエモーショナルな香りと感触は、今でもリアルに思い出せる。

とても、舞台で主役を務めるなんて柄じゃなかった。

性格だけではない。
容姿も全く、ドロシーにふさわしくなかった。

ドロシーといえば、金髪のおさげだが、わたしは真っ黒髪のショートカット。しかも、おしゃれショートではない。母が切った、ザクザクと不揃いの坊ちゃん刈りだった。

それに、垂れ目で生粋の三白眼。口は小さく、大抵への字。人見知りでプライドが高いから、表情も態度も、かわいげがあるとはお世辞にも言えなかったはずだ。


そんなわたしが、ドロシーに選ばれた理由はたぶん、【西の悪い魔女をやりたがったから】だった。

「明日、お遊戯会で何の役をやりたいか、聞かれるんだよ」
寝床の中のイメージがぼんやりと記憶にある。目の前にいるのは、またもや母だ。つくづく甘えたで、書いていて本当に恥ずかしい。

担任の先生から、演目は『オズの魔法使い』であること、どんな役があるかを教わったこと。そして、明日、どの役がやりたいか聞くからね、と言われたこと。
そして、「悪い魔女の役もあるんだって」と母に伝えたのを覚えている。

すると母はこう答えた。
「悪い人の役でも、誰かがやらなきゃいけないんだよ」

次の日。
女の子のほとんどは当然、ドロシーに立候補した。
しかしわたしは、「魔女をやりたい人ー?」の問いかけに、勢いよく手を挙げた。

自己犠牲の精神があったわけではない。
信頼する、大好きな母の言葉を、ただ素直に受け止めただけだった。

数日後。
わたしはなぜか、ドロシーを演じることになっていた。

その理由は、ちゃんと確かめていない。
でもなんとなく、「悪い魔女」に勇んで名乗り出た5歳児を、幼稚園の先生たちは少し心配に、いや、哀れに思ったからなんじゃないかと想像している。

この子は自分を卑下しているんじゃないか。自分を悪い人間だと感じているんじゃないか。
あるいは、自分の悪い部分を「良い」と思っているんじゃないか。
このまま小学生になったら、まずいのではないか。
ここで何か、自信をもてるような経験をさせておいた方がいいんじゃないか……。

そんなことを考えてくれたんじゃないか、と。

真実は分からない。
だがとにかく、かくして、坊ちゃん刈り三白眼・愛嬌ゼロのドロシーは誕生した。


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結論から言えば、わたしはドロシー役をしっかり全うした。楽しみさえした。子供ながらに、達成感を味わったのを覚えている(多大なサポートがあっただろうことは間違いないが)。

思い出せる、人生最初の成功体験だ。

そのおかげか否か、わたしは本番に強い。
それに、本番に向けて練習する面白さや、人前に立つ快感を知ってしまった気がする。今、真摯に打ち込んでいるタップダンスは、それらを味わわせてくれる最高の舞台だ。
ドロシーを演じた経験は、わたしの「強み」や「好き」を発芽させ、自己信頼の原体験となった。


そしてもう一つ。
この体験は、「選ばれる理由は、必ずしも実力だけではない」という教訓をわたしに与えた。

生きていると、何度も「選ばれる」場面に立ち会う。
クラス委員、部活のレギュラー、コンテスト、受験、就職、コンペ、恋愛、昇進……。

選ばれたくて頑張っても、報われないことは、残念ながら多い。

もちろん、明らかな実力不足の場合もある。自分よりも圧倒的に相応しい人がいたなら、大いに悔しがり、泣き、妬み、そしてしかし受け入れるしかない。

でも、選考結果に納得できないこともある。
なんで自分じゃなくてアイツが?
こういう場合、結果を受け入れるきっかけがつかめず、ズルズル引きずって、拗らせそうになる。報われない理不尽さに、腐ってしまいそうになる。

そういうとき、わたしは自分がドロシーに選ばれた経験を思い出す。

ドロシーに選ばれるのは本来、髪の長い、可愛らしい女の子だったはずだ。または、堂々としていて、表情豊かな、主役としての器に足る子。あるいはもしかしたら、配役に口を出せる権力者を親にもつ子、だったかもしれない。

主役をやるために必要な実力。
容姿・度量・演技力・コネ。

わたしは、そのどの条件も満たしていなかった。
だが現実、ドロシーを演じることになった。みんなが憧れる役を与えられた。
わたしがやったことは、母の言葉に「なるほど」と思い、「魔女をやりたい」と意思表示しただけ。この行動が、ドロシーを演じることにつながるなんて、予想できたはずもない。

どれだけ頑張っても、どれだけ相応の条件がそろっていても、選ばれないことがある。反対に、まったく関係ないように見える行動が、思わぬ結果を連れてくることもある。

「選ばれる」要素には、自分がコントロールできないものが多すぎる。ということは、結果がダメだったからと言って、自分のすべてがダメなわけじゃない。

「選ばれなかった」とき、わたしはこうして、やり場のない悔しさを飲み込んできた。



反対に、「選ばれた」ときの心持ちを整えるのにも、ドロシーに選ばれた経験が何度も役に立ってくれた。

二度目になるが、選ばれる理由は、実力”だけ”ではない。

たとえ何かに「選ばれた」としても、その要因がすべて自分の才能や努力にある、と考えるのは驕りなのである。

わたしは今までに、何度もこの「驕り」によって痛い目を見た。
無意識の傲慢さが、友人を遠ざけたこともあったし、薄っぺらいプライドを見抜かれて、穴があったら埋まって二度と出てきたくないような思いをしたこともある。

その度に、「ドロシーの一件で、一体何を学んだんだ」とため息をついてきた。


「選ばれる」ために、できること。
それは「自分がやれることを精一杯やる」だけ。

そう心に留めることで、ともすれば「選ばれた自分はすごい」と勘違いする自分を諫めることが出来たし、自分がやれることに集中した結果、誰にも負けない実力がつき「選ばれた」こともある。

思えばわたしはいつも、愚直であることを選ぶ。
物事を戦略的に進めるのが下手だし、苦手だ。
本心よりも打算や合理性をとると、大体上手くいかないし、なんだか悪いことをしている気分になる。

ドロシーに選ばれた理由に、自分の意図が何ひとつ影響していないことが関係しているのかもしれない。

「選ばれる」背後には、想定しうる事象の他にも、予想だにしない数々の事象が複雑に絡み合っている。
目に見えない縁だったり、なんとなくの直感だったり、何気ない一言だったり。一見関係ないものが不思議につながり、作用する。個人が意図的に制御できるものではない。こういう「思わぬつながり」を、総じて「運」と呼ぶのだろう。

自分の行いが、どう作用するかなんて分からない。だから、自分の信じた行いだけ、ひたむきに積み重ねていく。愚直であることに徹する。すると時々、行いが偶然つながって、願った結果にむすびつく。

楽でも派手でも画期的でもないが、わたしの「選ばれる法則」である。

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ドロシーは、銀色の魔法の靴のかかとを3回鳴らして、カンザスの故郷に帰るという願いを叶える。

このシーンを由来として、「かかとを3回鳴らす= ”Click one's heels three times ”」は、「故郷に帰る」という意味をもつそうだ。

銀の靴を想うたびに、わたしは、母に甘えてばかりだった5歳のころの自分に返る。
そして、今の自分の在り方のルーツを思い出す。

やはり、銀色の靴は、ネットで選ぶのではなく、自分の足で探しに出ようと思う。
出会えるか否かは、「思わぬつながり」におまかせする。



このnoteでは、【勇気を出してマイペースに生きていく】をテーマに、

✔他人の目を気にせず、素直に堂々としているためには?
✔️自分のめんどくささを受け入れ、軽やかに乗りこなすには?
✔誇りをもって働き、日々を過ごすためには?

など、【自分の気質を受け入れて、確かな足取りで生きるヒント】を綴っています✍︎✨


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