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映画『夜明けのすべて』が教えてくれた、「救う」ことも「救ってもらう」ことも、決して「特別」ではないということ。


自分を救ってくれる人・自分を理解してくれる人は"世界のどこか"にいるはず。


映画『夜明けのすべて』を観る前はそう思っていた。


でも、映画を観て変わった。

自分を救ってくれる人・自分を理解してくれる人は、
この"世界のどこか"ではなく、
自分が暮らす"街のどこか"にいる、
そう思えるようになった。

「いや、世界の中に街が含まれるんだから、言ってること同じじゃん!」と思った人もいるかもしれないが、

"世界のどこか"とは文字通り、

"地球上のどこか"という意味合いで使っていて、

そんな壮大な箱から探すわけだから、
「世界のどこかにいるはず!」なんて思いながらも、心のどこかで「出会えるはずもない」と半ば諦めかけていたのが本音だ。


でも、"世界"が"自分の暮らす街"に思えた瞬間に
その夢は一気に現実感を帯びてきたのだ。


「出会えるわけない」から「そこにいるかもしれない」に変わる。
「助けられるわけない」から「助けられるかもしれない」に変わる。


生き辛さを抱えたまま生きやすくなった感覚。
今まで感じたことのない嬉しさと心地良さ。
『夜明けのすべて』を観て新しい生き甲斐ができたようにも感じた。

今までの人生は、「人を助ける」なんて「特別な人」にしかできないことなんじゃないの?と思っていた。
それこそフィクションの世界に登場する"ヒーロー"と呼ばれる人たちみたいに。


『夜明けのすべては』SFでもなければアクション映画でもない、
バトルシーンもない。もちろんヒーローも登場しない。


だけど、「思うようにいかない毎日。でも私たちは救い合える」
ということを描いてくれる映画だ。


ただその"街に暮らす”二人が出会い、お互いに"救い合う"のだ。


弱きものを救うという一方的なものじゃなく
お互いに「救い合う」
なんて優しく温かで対等な関係性なんだろうか。


二人がたまたま同じ街にいて救い合ったように、
自分の街にもそんな存在がいるのではないかと思えるようになった。

「特別」だと思っていたヒーローのいる場所は
フィクションの世界の中ではなく、
自分の暮らす街だったのだ。

「特別」だと思っていたことは
誰にでもできる可能性のあることだったのだ。



何度も言葉にしているように、
この映画は「救い合える」ことをどこまでも信じて描いてくれている。


そう、二人は「"救い合った"」のだ。



この映画は「救われる」ということは「救える」ということでもあるとも教えてくれる。


じゃあ人を救うにはどうするのか。
それは相手を「知ろうとする」ということだと思う。


藤沢さんは山添くんが「パニック障害」だと知ったときにすぐにパニック障害について調べ始めた。
山添くんは藤沢さんが「PMS(月経前症候群)」だと知ったときにすぐにPMSについて調べ始めた。
自分が通うカウンセリングの先生に本を借りてまで知ろうとした。


病気のこと、症状のことはなかなか言いづらいし、話しても理解してもらえないかもしれない。
それでも二人は知ろうとした。


コミュニケーションで大切なのは相手の立場に立つことだとよく言う。
それはきっと、相手と自分の違いを探るために必要なことだからだと思う。
相手が踏み込んでほしくない心の領域に踏み込まないための確認作業。
つまり、適切な距離感を守ることがコミュニケーションでは大切だということなのかもしれない。


しかし、ときには引かれた線を、心の境界線を飛び越える勇気がなければ
「救えるかもしれない」と思えるところまで辿り着けないのではないかとも思う。

もちろん、そのときに土足で入り込むような無神経さは絶対にダメだが、
考えて考えて考えて、悩んで悩んで悩んで、
一歩踏み出して相手の心に近づいてみる。


言いたくないことを無理やり言わせる・探る・知るのではなく、
「本当は知ってほしいかもしれないけど、知ってほしくないかもしれない」
「中々言えないことだけど、言ってもいいかもしれない」みたいな
曖昧で複雑だけど、それでもその人にとっては「大切なこと」に歩み寄る気遣い。

その方法が藤沢さんと山添くんにとっては、
相手を「知る」「学ぶ」ことだったのではないかと思う。


実際に二人が「知る」「学ぶ」ことを軸にしながら、きっかけにしながら、
互いの世界に足を運ぶ場面が作中で何度も見られた。


症状のことに関わらず「そんなとこまで聞くのか?!」とか
「結構踏み込むなあ!」みたいに感じるシーンも多々ある。
それなのに、そのちょっとした勇気と心遣いと軽やかさがなんとも心地良いのだ。
二人の違いが明確に浮き彫りになる描写の数々、
それが二人の人柄として映画では物凄く丁寧に描写されていて、時折ふと笑ってしまうのもこの映画の魅力だと思う。

二人以外にもこの映画に登場する人は皆、この街に暮らす人は皆、
相手のことを知ろうとしていた。
栗田科学の人たち、元上司、親友、パートナー、親。
みんなみんな相手を知ろうとしていた。
言葉にする人、ただそっと手を添える人、星に重ねる人、
いろんな方法で、自分なりの方法で、相手を知り、救い合ったのだ。


想像以上に大変なこの世界で
「そういう人たちがいる」「光だってある」と思えたことに、どれだけ勇気をもらい救われたか。



この映画に「出会うことができて、よかった」


現実世界に生きる人間は、空を飛べるわけでも、手からビームが打てるわけでも、ポーズひとつで変身できるわけでもない。
宇宙人の脅威から地球を救うこともない。

だけど"そばにいる人"なら"救える"かもしれない。


“特別”だと思っていた「人を救う・救ってもらう」ことを、
これからは自分も当たり前にできるようにしたい。


そのときがきたらまずは、相手のこと、自分のことを知ることから始めたいと思う。


そんなことを夜明けの空に誓ってみる。

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