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令和二年の梅の鑑賞

新元号「令和」が決まってから、梅の花が注目されている。

僕は今年2月に、京都の長岡京市に引っ越しをした。家から歩いて20分くらいのところには、長岡天満宮がある。長岡天満宮は梅の名所で、ちょうど梅の季節がはじまる頃だったので、何度かに分けて梅の花を観に行った。

梅は、桜ほど派手じゃない。同じ瞬間に咲き乱れるわけではないし、花の密度が低いからか、満開のときでも、どこか咲き誇っているという印象ではない。それに、花が桜のように一斉に舞うこともない。

桜はとても日本人的な文化を育んできた気がする。花見といえば桜を見ることで、年にたった一週間ほどの、咲いた瞬間を集団で楽しむのは、いかにも空気をつくりだすのが上手な日本人らしい。

一方で梅はというと、現代では桜ほどのお祭りにはならない。「梅前線」も存在しない。それはひとつには、桜のソメイヨシノのように同時に咲かないということもあるかもしれない。長岡天満宮に行って初めて知ったのだけれど、世の中にはたくさんの梅の種類があるものだ。

梅の花をじっくり観るということは、桜を鑑賞するとはまた違う感覚で、桜のように全体を観るというよりは、ひとつひとつの枝を観るという感覚の方が正しい。これは僕個人だけの話かもしれないけれど、桜と同じ感覚で、梅の花を鑑賞する人は少ないんじゃないかと思う。

梅の季節はもう終わってしまっているけれど、来年の令和二年には、もっと梅の花が注目されて、鑑賞する人もふえるだろう。そのときには、桜の花見とはまたちがった文化が芽生えるかもしれない。



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