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古文漢文不要論 必要論者の詭弁

私は学校における古文漢文教育の必要論をいくつか読みましたが論理性が無いと感じました。
国語教育を実践していながら説得力のない文章を書いているのです。
このことは古文漢文を学んだからといって論理構成能力が高くならないことを示しています。


世間に出回っている多くの論争は必要性に関するものですが、本記事では差別的表現の議論にも触れます
古典は差別社会の中であらわされました。古典には差別的表現が含まれています。古い価値観の文献を学習教材に使っても良いのでしょうか。


古典の有意義性について、次のURLの記事のとおり、2019年に論争がありました。

未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望
https://bungaku-report.com/blog/2020/06/202010.html

この「総括と展望」には学校教育における古文漢文の不要論及びそれへの反論が書かれています。


1.不要派の4個の論点

「総括と展望」に掲載された不要論の要点は次の4点です。

1 国語力の中で大切で、かつ社会において求められている能力は、説明書や報告書の読み書き能力や、プレゼンテーション力・ディベート力である。古典(古語・古文・漢文)の知識や読解力は、現代においても未来において必要度が低く、教育設計においても優先度を低くすべきである。実際、現代における日常生活レベルの国語が使えないレベルの高校生も少なくない。こういう学生に古典を教えるよりも、最低レベルの現代国語をきちんと使えるようにする方が大事だろう。現在必修として割かれている古典の学習の時間は、論理国語に割り当てるべきである。

2 古文・漢文は、現代において読む必要度は低く、書く必要度はそれ以上に低いので、国語の中で学ぶべきではない。学ぶとしたら芸術の一科目として残せばよい。嫌いな人はやる必要がなく、好きな人は存分にやれるのだから、嫌いな人にとっても好きな人にとっても都合がよい。芸術の一科目としての古典では、古典を鑑賞したり、短歌や俳句を創作としてやったりすればよい。

3 古典が大事だとしたらそれは内容である。だから、学ぶとしても現代語訳で学べば十分である。我々は西洋の古典を翻訳で学んでいる。ニュートンの『プリンキピア』はラテン語で学ばないと理解不能であろうか?英語や翻訳で読めば理解できるだろう。日本の古典も、その内容を理解するためであれば、現代語訳で読めば十分だろう。

4 古典には古い道徳観や差別意識が見られ、ポリティカルコレクトネスの観点から見て有害である。現代において、このようなものは排除すべきである。ちびくろサンボが発禁になったように、古い道徳観や差別意識が見られる源氏物語も発禁にすべきである。古い道徳観や差別意識を刷り込むようなテキストを必修科目の教科書に掲載するのはやめるべきである。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

1から3までの論点は必要性に関する論争です。
しかし、4はポリティカルコレクトネス(Political Correctness。差別的な表現をなくそうとする考え方)に関する論点です。

以下に、不要論への反論に対する、私の反論を書いていきます。


2.不要派の論点 1 優先度

不要派は「優先度」というキーワードをよく使います。評価というものは、他の事象との相対的な関係の中で行うものだからです。
万物は有限で、人生は短く、教育資源には限りがあります。
有限であるため、費やす時間や資源の割り振りに優先順位をつけるのは当たり前です。

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

大学の理系学部の一部が、古文・漢文を受験科目から外していないのも、入学してきた学生が主として文系教養科目を受けるために必要な知識・技能のひとつに、古文・漢文の読解力と見ているからだと考えられよう。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

私は大学の文学部を卒業しました。在学中に、教育学科の先生の勧めによって、日本語に翻訳された海外の古典「エミール」(ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778))を読みました。書かれてあるアイデアは良いものでしたが、表現として「貧乏人は教育を受けるべきではない」という趣旨のことが書かれてありました。この表現が比喩であることは全体の文脈で分かります。しかし、比喩であったとしても表現は不適切です。
アイデアを学べば良いのですから、現代人の適切な表現による文献を読めば良いのです。
古典は表現が不適切であるため、古典を学生向けの学習に推奨することは不適当です。

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

ビジネス以外での生涯学習や、地域振興・文化振興への参画において、古文・漢文読解力が役に立つ場面はいくらでも想定できる。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

多くの市民にとってそのような場面はありません。
地域振興等における本来の目的は古文漢文ではありません。多様な市民が住んでいるのですから、むしろ、古文漢文の知識が必要にならないように地域振興をすべきです。
例えば、東大阪市では「ラグビーのまち」を標榜していますが、これは市民の多様性を無視しています。この「ラグビー」の部分を「古文漢文」に置き換えた場合、それでも、多様性を無視することになります。ラグビーとか古文漢文は、多様の中の1個です。ラグビーや古文漢文が主流となって、まちを実効支配してはいけません。

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

行政やビジネスや研究において、好むと好まざるとに関わらず戦前の文書を読まざるを得ない場面は、非常に少ないとは言えないだろう。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

いえ。少ないどころか、必要な場面はありません。
ここでの古文漢文に関する議論は、学校教育における議論です。職業としての専門の議論ではありません。専門的な職業しか古文漢文を使わないにも関わらず、子どもに教えることは不適当です。


3.不要派の論点 2 芸術科目

古文漢文を芸術科目に分類してはどうかという意見は、提案しただけです。不要派によるこの譲歩案は取り下げるべきです。

古典が「為政者たち、ビジネスのトップたちに読まれてきた」のは過去のハナシです。昨今では、ビジネスのトップが読むべきは日本経済新聞です。

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

古典すなわち古文・漢文で学ぶことは表現ばかりではない。いな、むしろ現代文に連なる語彙・文法・論理・思考・表現・文体であり、これらの技術・知識の修得は、芸術ではなく、国語力に関わるもの、つまり国語リテラシーである。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

この主張は「我々古典学者は国語力が高いのだ」と言っているのと同じです。古典を学んでいない者は国語力が低い、と暗に言っているのです。
自分は頭が良いってことを自分で言っても他者には通じません。


4.不要派の論点 3 現代語訳

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

古文・漢文は、語彙・文法・表現・文体をも学ぶのである。いや、そちらの方が古典を教える本意である。教科書の載っている古典がスゴいから、古典を学ぶのではない。現代文と同様、古文漢文の例題を学んで古文漢文の読み方を学ぶのである。(中略)古文・漢文の語法・文法の知識と読解力は、現代文を読む国語力をつける一助、いや現代国語力そのものである。(中略)これらの作業が論理的思考を鍛えることに繋がる。(中略)どんなに控えめに言っても、英語の読解力や知識よりは、古文・漢文の読解力や知識が現代文を読み書きする技術と知識に直結していることは間違いないだろう。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

古典学者は、自分のことを論理的思考力が高い、と自分でおっしゃっています。
古典ではない方法でも論理的思考力を養えるのではないでしょうか。


5.不要派の論点 4 ポリティカルコレクトネス

この論点が本題です。
「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

国語教科書は、文部科学省の教科書調査官がチェックしているため、ポリティカルコレクトネスの観点から問題になるような本文は除かれているし、教科書会社も十分注意している。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

古典は差別社会の中で著された文献なので、例えば、「エミール」という教育に関する文献であっても差別的表現は原文に掲載されています。
教科書に掲載する場合には、差別的表現を削除します。
民主主義の観点から問題が生じないように、問題の無い箇所だけを切り取って教科書に掲載するのです。
その結果、貴族社会はすばらしいと演出することになり、読者もそう感じることになります。読者は当時の差別意識や抑圧された卑賎の民に想いを寄せることはありません。

学校教育で古文漢文を学ぶ意義は、この「総括と展望」の著者によると、古典を読めるようになることだそうです。
このことは、教科書に掲載されていない箇所も読むことを推奨していることを意味します。
余暇時間を利用して教科書に載っていない箇所を読んだ場合、差別的表現に接することになります。古典のコンテンツは有意義であるという前提ですから、差別的表現を肯定して読み進むことになります。

「総括と展望」で不要派への反論として次のとおり書いてあります。

不要派は、教科書掲載の『源氏物語』もポリティカルコレクトネスの観点から問題なのだという。基準をどのように考えるかという問題が残るが、どうやら不要派は、「やんごとなき」身分の登場人物が存在するだけでアウトだと考えているようである。前近代の身分社会に基づく「高貴な身分」の人を描いたものは全て排除すべきであるという考え方だとすれば、多くは貴族文化から生まれた「日本文化」と称される文化遺産の大部分を否定することになる(これは日本に限ったことではない)。(中略)日本画の題材をはじめとして着物の文様に至るまで、前近代の造形美は古典やその美意識と大いに関係があるが、それらも、旧道徳を刷り込む有害物ということになってしまうだろう。

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

「高貴な身分」の人の発想や生き様は現代の若者にとって人格形成の参考にはなりません。
かつての「日本文化」は差別の文化でした。
差別を否定することは教育的観点から正しいです。

必要論者は「多くは貴族文化から生まれた「日本文化」」と主張し、議論を日本画や着物の文様にまで拡大解釈し、ポリティカルコレクトネスの観点からの意見を真っ向から否定しています。人権問題は慎重に議論を進めなければなりませんが、必要論者には立ち止まって謙虚に考えるという姿勢はありません。

人権や民主主義という発想は貴族文化から生まれるわけがありません。
人類にとって、貴族が遺した文化遺産と人権や民主主義とのどちらが大事でしょうか。

肝心なのは、学習とは何か・何を学ぶのか・どう学ぶのか、という問です。
学校教育における学習は現在や将来のためであって、遺物や貴族を愛好するためではありません。

仮に文献に貴族だけが登場する場合、そこから我々一般市民は何を学ぶのでしょうか。
異次元の世界を見聞きしても意味がありません。
一般市民の少女が十二単(じゅうにひとえ)にあこがれたりしたらバカみたいです。一般市民が貴族になることはあり得ないのです。
例えば、貴族が着た十二単を教科書に掲載するのであれば、その当時の一般庶民の服装も同時に掲載し、身分格差を学習することはあり得ると思います。

不要論者による「「高貴な身分」の人を描いたものは全て排除すべき」という主張の本意は、貴族などの支配層だけが登場し解説される教科書は不適切であるいう意味であって、今現代に生きる我々との関係性の中で民主主義のあり方を考える教材にしなければならない、という趣旨だと思います。一般庶民はどのように扱われ何を想いどのように生きたのかという視点も必要なのです。
そのように学習すれば、貴族は憧れや畏怖を感じる対象ではなく、差別社会を堅持する支配層であるという認識を持つことになり、その認識は民主主義社会を考える材料になります。

相手が貴族や皇族であっても人間として対等であるという認識をしっかり子どもに持ってもらう教育をしなければなりません。

我々の将来の社会は、為政者という一部の者だけではなく、多数の一般市民による社会参画が活発になるでしょう。また、そうなるように、学校で教育を進めるべきです。そうであるならば、古典や歴史においても、当時の一般庶民が置かれていた状況はどうだったのか、という視点からの文献が望ましいことになります。

実際には、抑圧された者の立場に立った古典は存在しないでしょうから、学校教育において古典を学ぶ必要性はありません。
古典を学ぶよりもSDGsなどを学習する方が有意義です。

「総括と展望」の著者は、一見したところ、言語とコンテンツとを別物とする発想をしており、古文漢文の学習の意義は、コンテンツではなく、その言語を学ぶことだと主張しています。
しかし、他方で、コンテンツは絶対に良い、と考えており、それを記している言語を知らなければコンテンツを理解できない、と考えていますので、結局、言語とコンテンツが融合・合体していることになっています。
古典のコンテンツ全体を肯定し、そしてそれを読むことを前提に学習を勧めていますので、差別社会も肯定していることになっています。少なくとも、抑圧された者に関しては無関心です。ここに詭弁があるのです。
このような教育思想は民主主義にとって有害です。


6.(参考)古文漢文の意義

必要論者が古文漢文の学習の意義について述べているので、参考に引用しておきます。

古文・漢文の学習の意義は、将来、読む可能性のある古文・漢文ないしは、古文・漢文的表現を含む現代文に対した時に、それに適切に対応する読解力、さらには実用的な言語運用能力の養成である。または、過去の膨大なテキストを利活用しようとする時に必要な技術の習得である。(中略)つまり古文・漢文(=文語文・漢文訓読)を学習するか否かは、この近代以前の膨大な文字遺産を自分が活用できるか否かに直結する

「未来に活かす古典―「古典は本当に必要なのか」論争の総括と展望」から引用

古典が有益であるとするのであれば、それを基にしたすばらしい成果を残しているのだろうと思います。でも、その成果の証拠(エビデンス)を示していません。素晴らしい、と主観で言っているだけなのです。
江戸時代などでは古典ぐらいしか学習教材がなかったでしょうから古典は有意義だったでしょうが、人類の知識は進歩しますので、過去の知見は常に上書きされます。古典愛好者は、このような当たり前の現象を無視しているのです。


7.必要論者について

(1)盲点

必要論者には盲点があります。盲点とは、古典に書かれたコンテンツは全て素晴らしい、と思い込んでいることです。そのような思い込みが変だということに気がついていないようです。
物事は変化し続けるのですから、古典ではなく、最新の知見を知る方が良いに決まっています。
この盲点については多くの者は気がつくはずです。
にも関わらず古典学者は気がつかないのです。
そして、古典学者は自分自身のことを論理的思考力があると評価しているのです。
例えば、ポリティカルコレクトネスという新しい概念が発生しても、表層しか理解していないことは既に述べたとおりです。


(2)先行者利益

古典のあり方を理解するには、先行者利益というアイデアが便利かもしれません。
昔は、文字の利活用は支配層が有利でした。そして古典が生まれました。
長い間、学習のための文献は古典しかありませんでした。支配層は自身に有利になるよう古典をたたえたでしょう。なので、古典が絶対であるかのような錯覚をしてしまうのでしょう。
その後、物質が豊かになり、多くの者は文字を読み書きできるようになり、新しい概念を創造し、ものの見方・考え方を発展させていきます。コンピュータが普及することによってバージョンアップという概念も普及することになり万物は変化するというものの見方・考え方が当たり前になってきます。
後発組が生み出した考え方、例えば、人権とか民主主義という思想の方が、古典に記されている思想よりも優れています。
今後も多くの市民によって後発組が生まれ新しい概念が登場するでしょう。
古典は美術品となってアーカイブになります。
人は貴重な人生の時間を費やしてまで古典から学ぶ意義は無くなりました。


(3)説明能力

不要論者は他の分野が専門です。専門外であるにも関わらず有効な論理を展開しています。
しかし、国語教育学者は、古文漢文が専門であるにも関わらず、その有意義性に関する説得力のある論理を持たないのです。遠い昔から受け継いできた、という事実をもって、古典は素晴らしい、と言っているだけです。
古典学者は、古典の有意義性を語る場合、古典のことしか語らないのです。
何故そうなるのでしょうか?
たぶん、古典を情緒的に好きでやっているため、論理を用いて他者を説得できないのではないでしょうか。古典というカリスマに突き動かされているだけのように見えます。
その反面、会社経営者や理系研究者は、合理的・論理的に考えざるをえないのです。


(4)創造性

古典は遺物です。古典愛好者は既に完成してしまっている遺物を愛好しさえすれば良いので創造性を持つ必要がありません。
創造性があるとすれば、古典の内容の意味解釈の仕方の創造性でしょう。
古典が真に創造性を発揮するのは、現代を生きる者が、現実の問題に直面した時、古典がアイデアやヒントになる場合です。
これは昭和時代までであれば、あり得たのかもしれませんが、それは学習の教材が古典だったからです。
しかし、現在そのような場面は無いでしょう。例えば、会社経営者は、古典を読むよりも、日本経済新聞を読む方が効率的です。


(5)学問とは

ある学問分野が真に承認されるのは、他の学問分野の者から認められる場合です。
例えば、物理学や生物学は、その詳細を知らなくても、他の分野の者はその意義を認めます。当該学問に関して専門家のように詳細を知らなくても、要不要の判断はできるのです。
学問の中核は論理です。その論理は客観性・再現性が必要です。
昔は社会的地位の高い者は合理性の無い主観を主張することができました。古典学者はそこから学んでいるのです。自分で自分のことを賢いと言えばそれが通るのです。
合理性の無いものが大学に居座っていることが不当なのです。


8.最後に

古文漢文の議論をしてきましたが、それはハナシのネタです。
中心にあるテーマは、学習とは何か、合理的・科学的に考えるとは何かということです。
問題なのは、意味の無い教育が学校で正々堂々と延命していることです。


(参考)

以上

#古文漢文 #古文漢文不要論 #学校教育 #民主主義