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ぼくとおじさんと - 僕の一日

番外編⑤ 僕の一日 ep.2

陽の移ろいで秋を感じながら、僕は桜間が乗ってきた車に高木の荷物を運び入れ二人を見送った。
高木の部屋の鍵を僕が事情を話してアパートの大家に渡した後、自転車をまたぎ次の阿部雅子の所に移動することにする。
阿部さんは二番目の店舗のそばに住んでいる。齢は60歳だが、外国人アルバイトからお母さんと呼ばれ信頼を寄せられている人だ。
高木といい阿部さんといい二人とも女性なのは、男の僕にないものを持っているからに他ならない。
10 日ほど前、自宅にいた阿部さんにご主人が倒れこみ、救急車で運ばれた。脳血栓ということで手術、入院したが、幸い手当てが早く薬で脳の血栓が取れて後遺症はないそうだ。その間阿部さんは病院通いをしていた。
阿部さんが店のオーナーに話したことは、主人が心配なので店を辞めて看護に専念したいということだった。
第二店舗までは距離があるので自転車のペダルを深く踏み込まなければ速度が出ない。リズムと吐息が早くなる。ビルの立ち並ぶ地平線のふちに陽も陰ってきた。
激しくこぐ自転車のリズムが、来るときの記憶を呼び戻した。
世界と世界観、ものの見方と考え方。おじさん方が集い、そんな語らいに僕も顔を出しているが、齢も近く考え方も似通っているのに、お互いの激論を聞いていると疑問が浮かんでくる。
お互い似たような世界観なのだろうが、そして同じ言葉を使っているのだが、その同じ言葉の意味をめぐって激論を交わす。同じ言葉で中身が違うのだ。
以前、テレビのチャンネルを間違った番組を選んでしまったことがあった。国会の議会答弁が映っていた。
そこでは「防衛」と「武器」に関しての質問と答弁を聞くことになったが、僕がびっくりしたのは同じ言葉をめぐって質問する側と答弁する側で180度違う内容で話していることだった。
一方では武器を使わず外交で防衛を図ることを質問し、答弁する政府の答えは武器で戦うことが防衛という。
そこでは国民が餌となり、国という国会議員の持ち場での国の在り方が議論されていたのだが、僕からは僕たち国民がいない「国」という「世界」、そして彼らの持つ「世界観」に根差した議論のように聞こえて、僕はすぐにチャンネルを変えた。
僕には、庶民とはテレビで映し出される人の顔であり、国も議論もテレビで見る限りの事柄でしかない。どこにも僕が関われるものではないので、他人ごとになってしまうのだ。
おじさんには「それではいけない。自分たちに被害がかかってきてから気が付くのでは遅いのだ。」と、怒られたことがあるのだが、世界も世界観も遠い夢の世界だ。
ただ、簡単な言葉、考え方のイロハから始めてもらえれば分かりやすいだろう。
阿部さんが、店で働いている外国人に慕われるのも、言葉や考え方を彼らに分かりやすいように説明してくれるからだ。
おじさんや世間でまかり通っている「世界観」も阿部さんが説明してくれるなら、僕にも理解できるだろう。
そうそう、世界観で僕が感じる違和感は上から目線で話すことにある。おじさんの話も言葉が絶対で、政治家や官僚の話はその上悪いことに僕が大学で習った明治以降の官僚語「教導する」すなわち庶民・国民は無知蒙昧なので国・官僚が教え指導するという態度がプンプンするからだろう。
自転車は進む。ペダルを漕ぐ音とそれが醸し出す雑なリズムの中、普段車に乗っていると感じないのだが、思ったより上り下りの多い道を息を切らしながら、とりとめのない思いを巡らせているうちに第二店舗に着いた。
店のアルバイトに挨拶をして、自転車で近くの阿部さんの自宅に向かった。
事前に電話を入れていたからか、阿部さんはアイスコーヒーをテーブルに置いて対応してくれた。
「明日、主人が退院するの。二週間の入院だったけれど、この間色々考えてしまった。
オーナーにも話したけれど、主人は今回、私がいて助かったけれど動脈硬化の血栓はまだあって、今度血栓が脳に行くと危険だとも言われて、私、これからは主人のそばにいてあげようと思っているの。慕ってくれるネパールの子供たちに悪いけど、お店辞めようと思うの。」
阿部さんは考え続けてきたのだろう。冷静な決意を感じる。
僕としても、阿部さんの看護の邪魔をするつもりはない。
阿部さんとは暫くは店の様子や外アルバイトやネパール人のアルバイターたちの話をした。
彼女は外国の子供たちを含め、差別やヘイトスピーチには心を痛めていた。
言葉を十分に覚えきれないまま、働かなければ生活していけない彼らの境遇にも同情していて、休みの日にはそんな彼らを自宅に呼び食事をさせてもいた。
「店で、チャンドラ君とイーシャさん、心配していましたよ。お母さん居ないと寂しい。悲しいってね。」
阿部さんの顔が引きつり、僕に振り向く。
「そうよね。このあいだも、昼から酔っぱらった客が対応が遅いとイーシャさんを怒鳴って泣かせてしまった。指定された煙草を探していただけなのにね。その時、私も思わずその男に怒鳴り返してしまったけれど、そうそう、これは店長に報告してなかったけれど、ごめんなさい。」
客への対応、接客の仕方についての詫びなのだろうが、阿部さんの心意気を感じる。
ネパールの人は純情な人が多いので、そんなことがあって泣いてしまっただろう。
「ところで、今日僕が来たのはご主人の様子と、阿部さんの今後を聞きたいと思って来たのですけど、仕事に戻れとかいうことじゃなく、阿部さんの様子とご主人の介護事情を聴いて、僕なり店として何ができるのかを考えようと思って来たのです。」
僕は飾らずに、率直に来た理由を話した。
この第二店舗出店に関しては同じ市内といってもなれない土地柄だったこともあり、開店に際しバタバタしていた上に募集に関してもなかなか人材が見つからなかった。店舗営業は桜間がいたので任せたが、アルバイトに関しては誰でもいいとはいかなかった。あまりにも安易な応募者が多かったからだ。そんな時、外人の応募も多く中国人、韓国人などからも応募に来たが結局ネパール人を数人雇うことにした。
同じ応募で来た阿部さんは気さくで住まいも近いということで採用したが、その阿部さんが開店以来他のアルバイトやネパール人の彼らを上手くまとめてくれて、外人のいる店として人気の店にしてくれた。美人のイーシャは看板娘だった。
「明日、ご主人が退院ということで、これから自宅での介護ということになると思うのですが、幸いにご主人は障害も見られないぐらいに回復しているようですが。何か計画でも立てていらっしゃるのですか。」
「主人に何かあったら怖いという思いで一杯なの。主人はご存知のように活動家ですから、体力が回復したら散歩やジョギング、山歩きなど始めるのでしょうが、私はそれについていく体力はないので、私にできること、主人に何かあった時の対策が一番の検討課題になっているの。」
重症の患者は別に考えなければならないのだが、軽度で体が動く人の介護はそばにいて見張るだけの必要はない。具合が悪くなった時、体調の変化を感知しての対応や連絡の俊足性が命を守る最大の方法だ。
心拍数や危機感知機器は開発も進んでいる。離れていても定期定点的な連絡での健康確認も介護にあたる。
僕は知りうる限りの安全確認の機器・機材を阿部さんに説明した。
そして阿部さんの存在と能力が、店に必要なことも付け足した。
別に難しいことをするわけではない。能力とは、彼女の持つ人生経験と接客術そして人をまとめる力だ。存在とは、居ることで安心できる信頼感だ。特にネパール人の彼らには必要な人なのだ。
「そうそう、この間、金君が来ていったそうだよ。阿部さんがいなくて残念がっていたそうだ。」
「あら、金さんが来たのですか。懐かしいね。残念だったわね。」
金君は、開店当初から大学にいくまで働いていた在日朝鮮人だ。
学費を稼ぐためにアルバイトをしていた。
子供のいない阿部さんには、オモニと言って親しくしていた。オモニとはお母さんという意味だ。兄弟が多い分、中学時代からバイトで働いていることを知った阿部さんが特に気にかけていた子だ。
大学は郊外での寮生活なので、なかなかここまで出て来れないという。
阿部さんは朝鮮学校があることも知らなかったそうだが、朝鮮学校の高校部の金君を知って色々知ることができたという。
自分たちの言葉や文化、そして歴史や数学などを教える普通の民族学校に対して政府、文部省は朝鮮学校を学校とはみなさず何の対応もしていない。
日本人と同じ税金を払い、負担を負っていながら学校に対しても、また教育を受ける権利を持つ児童・学生に対しても一切の補助をしていないのだ。勝手にやれ、援助はしないということだ。
しかも戦後、全国にたくさんできた朝鮮学校を、警察を動員して潰してきたのだ。
教育を受ける権利保障のため、自治体では助成金を出していたが2020年の安倍政権で自治体に対して助成金を出すなということまでしている。
自分たちが受ける学校教育が親たちの負担であることを知っている子供たちがアルバイトをして親を助けているのが、金君の話で分かった。
このことを知った阿部さんは怒った。朝鮮人に対する差別は関東大震災での中国人、そして大量の朝鮮人殺すという、考えられない大虐殺があって国際的にも「1923年ジェノサイド」ということで知られているが、政府は資料がないということで、100年たった今もその事実を認めていない。国際的にも批判されていることに頬かむりを決め込んでいるのが今の日本だ。多くの人々から虐殺の事実のレポートが積み上げられているのにも関わらず、黙りこくる。何のために無視するのか。ひょっとして明らかになるとまずいことがあるのか。
阿部さんは外国人差別とりわけ朝鮮人への差別・偏見を持った政府を、官製ヘイト集団だと言って忌み嫌っているが、社会全体がそのような傾向になっていることを警戒しているようだ。
だから、事情を知ったうえで外国人のアルバイトに対しては母親的に接しているようだ。
東南アジアから来ている人は、紹介機関に多額の金を積んで日本に来ていることも耳にしているので、日本に来て苦労している彼らに対しての思いは強いようだ。
「そうなんだ。金さんも来たんだ。
皆と、いろんな人と出会えたのだよね。お店で。
ところで今後、コンビニも自動化でアルバイトも人も必要なくなるようで、実際そのような無人化の店もオープンしているようだけど、いずれ私たちのお店もそうなるのよね。」
いきなり阿部さんが無人店舗のことを話し出したのは、これまでの話とは脈絡のない話なので僕は驚いた。
意図はわからないが、仕事場を確保したいという気持ちなのだろうか。
「以前、オーナーからそんな話は合ったけれど、いくら合理化といっても人や接客を無視した商売はビジネスとしてはあっても人が人に物を売るという本来の姿ではないから、僕は反対したし、オーナーも同じ意見だった。もっともこれからオーナーの子供たちがどう考えるかはわからないけどね。
でも突然、なんで無人店舗の話になったの。」
僕は反対に阿部さんに質問した。
「いえ、ただ、今少子高齢化で働く人も少なくなるから無人店舗の話が進んでいるということで、そうなったらほかの人もそうだけれどチャンドラ君やイーシャさん達どうなるのかしらと思っただけなの。
あの子たちがいる間に、私ができることをしてあげたいと思ったから。
お店に戻るのは、もう少し主人と私が安心できるようになることを詰めてから考えるわよ。」
阿部さんの仕事に関して僕が提起できるのは、身体測定装置で健康状態の管理と仕事場からの連絡体制をシステムとして作ること。阿部さんが仕事に入っても15分か30分ごとに、例えば携帯のラインで簡単に通信できるようにする。「大丈夫か」「今どこにいる」「大丈夫!」「具合が悪い!」を簡単なイニシャルで対応してもいいだろう。
環境づくりでは地域の福祉協会や地域包括事業と連携させて連絡・訪問・介護をつなげていくことを提案した。
何よりも住居と仕事場が近いことが強みだ。阿部さんも旦那さんの監視ばかりでは疲れるだけだ。
話は続いたが、要請があればシフト入れは楽なように組める。週勤であれ週2,3日であれ、阿部さんが働き続けることで他のアルバイトの励みにもなるということを伝えた。
話はうまくいきそうだ。時間のある時に店に来てシフトを作ろう。
そろそろ暇をしようと思っていると阿部さんが言葉をかけてくれた。
「さっきの無人店舗の話だけれど、あの子たちが辞めたら、仕事探しで騙されないのかと考えてしまう。私には何もできないけれど、一緒にいる限り一緒に働いていい思い出を作ってあげたいのね。」
外に出ると、もう陽は落ちていた。昼間や夕方に落ちる木や人の影が、形のない黒ずんだ闇になりかけている。この闇がやがて夜に溶け込んでいくのだろう。
そばにある第二店舗に向かいながらも、阿部さんが最後に語った言葉が耳に残っていた。
あれはいつだったか、安堂のおじさんの親戚の資産家が毎年開く夏の「海の日」に参加するので千葉の九十九里浜に行った時のことだ。
親戚の事業家が慈善活動で、毎年孤児のいる施設の子供たちを招いて遊泳や引き網を体験させ、焼肉大会では思いっきり肉を食わせ、スイカ割りや抽選大会をやって子供たちを施設に帰す催し物だった。子供たちも踊りの披露やマイクで歌ったりすることで楽しく過ごしていた。
僕は焼肉がたらふく食えることとアルコール、酒が飲み放題なので毎年おじさんから声がかかるのが楽しみだった。
ある時、そばにいた人が段取りを進めているおじさんや資産家のことをぼろくそに言っている言葉か聞こえた。
「どれだけ金を使っているのか。見栄だよ、見栄。自己満足だよ。」
食事をご馳走になりながら、よくそんなことが言えるものだと思ったが、その時また違う声が聞こえた。それは施設の子供たちが踊りを踊っていた時だ。
「あの子たちも可哀そうだな。あの横で踊っている娘。可愛いけど、18歳で施設を出たら行くとこないから、結局体を売らなきゃならないんだよな。」
何てことを言うのだ。体を売るという言葉に僕は頭にきた。酒を一気飲みして、今話した親父をぶん殴ってやろうと立ち上がったが、周りを見て思いとどまった。施設の子が楽しそうにしている場で騒ぎを起こすのは、あの子たちの楽しかった思い出に傷をつけると思い立ち、そのまま座り込んだ。
そうだ、焼肉をたくさん食べて炎天下でスイカ割りをして楽しかったことは、あの子たちの記憶に残るだろう。楽しかった思い出として。
おじさんの親戚もそのことを考えて毎年身銭を切ってイベントを続けているのだろう。
一度おじさんの親戚の当事者と話をしてみた。
大学やその他進学して勉強したい子もいるので助成基金を作りたいと思っていたのだが、なかなかできないでいる。なかなか難しいものだと、言っていた。
あれから景気も悪くなり、基金も催しも難しくなっている。
親もなく、親から離れて育てられる子供たち。運営の維持がし易い施設は人里離れたところに幾施設かおかれている。
社会から隔離され、18歳になると施設を出ていかなければならない。行く当てのない子供たちの生活基盤はどうするのだろうか。
その日の催しの終り頃だったが、お互い酔って僕と話をしていた相手が施設関係の人だと気付いたのは、彼がしきりに里親探しの話をしていたからだ。
里親といっても、すぐに受け入れ先が見つかるわけではない。なかなか難しいと、彼は顔にしわを作って話してくれた。
身寄りのない施設の子供たちに必要な里親探し、それは求めて得られなかった暖かい家庭探しなのかもしれなかった。
僕が阿部さんの言葉で思い出したあの催しのことは、施設の子に何もしてあげられないが、ただ一つ、僕ができたのは楽しかった思い出を作って上げることだったのだろう。

阿部さんはご主人と相談し、次の日には店に来てシフト協議に入った。
高木もオーナーの好意で一部屋を借り、次の日にはシフトに入った。


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