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ぼくとおじさんと - 僕と文乃の一日

番外編⑤ 僕と文乃の一日 ep.2

「憲法の話になったが、要するにどのような国づくりをしようとするか、その根幹の法律と言っていい。武志は、憲法は読んでいるよな。」
 また僕にお鉢が回ってきた。
「いきなり聞かれても。読んだ記憶があるような、ないような。」
 文乃が助け舟を出してくれる。
「中学、高校では憲法をやった記憶があるのですが、日ごろの生活の中では読む機会がないので、いきなり聞かれても中身は思い浮かばないですわ。」
 隆俊おじさんが、また聞いてくる。
「じゃあ、日本国憲法の三つの特色は。」
 僕が答えなくちゃならないのか。
「一つは平和主義。憲法9条の戦争をしないことで、二つ目は基本的人権の尊重。三つめは、なんだっけ。」
 僕は文乃にせかせる。
「国民主権の原理、でしたわね。」
 文乃が答えると、隆俊おじさんはフンフンと首を前後に振りながら話し始める。
「条文は頭になくても、ポイントは頭にある。さすがというより、それは試験に出るから覚えているのであって、条文の理解とは別の問題だ。何が書いてあるか、何のためにその言葉があるかを理解しなければ、憲法を読んだことにはならないと言うことだ。文ちゃん、そうだよな。」
 おじさんは文乃の顔を見てニコニコして語る。僕は無視されている。
「今、議論されているのは、憲法も古くなったので色々不都合が出ているので改憲しようということですよね。」
 僕なりの見解を開示した。
 するとおじさんは「何をどう変えるのが、武志、知っているのか。」と、今度は僕への攻撃が始まった。
「別に、不都合が生じているので現実に合わせようと言うことで、ほかの国もやっていることじゃないですか。」
 僕が答えると、酒を飲みながら半目で天井を見ていた安堂のおじさんが口を開く。
「武志、そのどんな不都合があってどんな現実に合わせようとしているのかを知らなければならないのが、今回の改憲問題なのだよ。そして、隆俊がさっき言っていた条理的解釈、つまり日本国憲法がどのような目的をもって国づくりをしようとしているのかを知らなければ、日本国憲法を理解したことにならないと言うことなのだよ。」
 僕にとって、チンプンカンプンの話になってきた。僕が攻撃されているのか。
 助け舟はない。
 飲み干した茶碗を隆俊おじさんに差し出すと軽く一升瓶で継いでくれる。昼にはまだ早いが、昨日の酒の残りが相まって文乃の顔が二重に見えだした。
 隆俊おじさんが引き出しを開けて持ってきた、昔小学生に配って読み合わせたという字の大きく書かれた日本国憲法をにらみながら、僕も反撃しなければならない。
 昔と言ってもいつ頃の事だろう、小・中学生から日本国憲法を読み合わせていたのは。
 小学生の教科書といえばスエーデンや北欧の小学校では、小学校で基本的なものの考え方を教え、自分で考え行動できる教育をしているという。一人一人が自分で考え、社会やコミュニティに参加し自分たちの国づくりに参加するという教育は、上から既成のシステムを押し付ける日本の教育とは全然違う。だから、かの国の小学生は新聞やSNSを使い自分の考え方や生き方を主張できるようになっているので、小学生や中学生でもおかしいと思ったらデモまでやるらしい。気候温暖化や様々な問題で、小学生がデモをするのをニュースで見たことがある。
 安堂のおじさんは続ける。隆俊おじさんに、何かツマミはないかとせっつかせながら。
「日本国憲法の目的は前文に書かれている。まず国民主権と基本的人権だが、明治憲法では天皇が主権者であり国民がその支配にあったことから、今の憲法では国民が主権者であることを明記しているところの主権在民だ。これは現憲法、日本国憲法の肝心なところだ。」
 安堂のおじさんにせっつかされた隆俊おじさんが台所にあったお菓子ケースからバタピーをもってきて安堂のおじさんに渡すと、安堂のおじさんはそれを食べるために会話が途切れた。
 すると隆俊おじさんが間を取り持つ。
「それまでの明治憲法は、君主制の憲法で天皇が主体の専制の政治体制だったことは武志も知っていると思う。それに対して立憲的憲法は、憲法に基づいて統治されるもので共和制、すなわち国民が選挙で選んだ代表が統治する政治体制で、政治権力を制限するための憲法なのだ。日本国憲法も、政治権力を制限するための憲法でもあるわけだ。イギリスのマグナカルタ、王の権力に対する制限を決めた1215年の法律、そして1689年の権利の章典の制定で議会が王権を制限する宣言の流れに沿ったものだ。ただ、共和制が民主主義を採用するとは限らないし、君主制が必ずしも専制とは言えない。日本は戦後、立憲君主制を取った。
 つまり天皇は象徴的存在としてはあるが政治に関与する権限はない。
日本国憲法では議院内閣制という枠組みの中で、国民が選んだ議員による内閣が行政権を行使している。ただ、明治憲法も天皇が絶対主権者だが形式的に立憲的な体裁で作られているので、学者の間では外見的立憲主義の憲法という名称を使っている人も多い。
 明治憲法における政治権力は中央集権的な君主制で、神を権力の軸として天皇が立法権と行政権を持ち国民の人権を制限するものだった。つまり、明治憲法は近代的な立憲主義の基本である個人の尊重の理念がなく国民の人権が制限されていた。それが個人の人権を抑圧して国家に権力を集中させることで、武志や文ちゃんの知っているように軍が主軸の軍国主義、全体主義、国家主義になっていった訳だ。」
 すると、手に持ったバタピーを口に入れかみ砕き、酒で喉に流した安堂のおじさんが続ける。
「と、言うことで日本国憲法前文に戻る。
 憲法前文に書かれている基本的人権、これは自然権的権利だが人間が生まれながらにして持っている権利として、憲法11条にあるように『すべての基本的人権』と明記されている。そしてこの基本的人権は人間が生存する権利、すなわち生存権という人間の命を守るという基本的な権利、そしてそれが『平和のうちに生存する権利』として憲法前文に書かれている。
この生存権、命を守ると言うことが戦争をしないという憲法9条に条文化・明文化されているのだ。
 憲法9条は1928年の不戦条約に由来している。
 国際紛争の解決の手段として軍事的手段すなわち戦争で解決するのではなく、平和裏に外交で解決しようという条約で、当初日本も不戦条約を結んだのだ。だが、この条約の第一条『人民の名においての宣言』という言葉が当時の明治憲法の天皇大権にそぐわないということや1930年代からの軍による満州支配、これは武志たちも教科書で満州事変では知っていると思うが、軍事外交を進めた結果国際連盟を脱退して不戦条約や軍縮条約を破棄して戦争に突き進んだ。
 この不戦条約も第二次大戦後の東京裁判やニュルンベルグ裁判で戦争裁判人を裁く時の考え方や、国際連合憲章にも採用され日本国憲法にも第9条として生かされていると言うことなのだ。
そこでは世界大戦での悲惨な結果を踏まえての戦争放棄と、国と国が仲良くしていくための国際主義が、この憲法では謳われている。
それは世界大戦の悲惨さを体験した世界中の人々が共有する共通の認識だった。
 戦争というのは人と人との殺し合いだ。自分が死ぬと悲しむ親兄弟がいて、そして子供がいる。相手にもその死を悲しむ家族がいる。お互い殺し合いの戦争を放棄することは命を守ることであり、このように基本的人権・生存権を守ると宣言したのが日本国憲法なのだ。
だから日本国憲法の前文を読めばわかるが、国民主権があり、国際社会において恒久の平和を祈願する国際主義と平和主義、そのためへの基本的人権の尊重と保証が『平和のうちに生存する権利』生存権が書かれているわけだ。
そして大事なことは憲法前文に書かれている『この崇高な理想と目的』を達成するために『日本国民は国家の名誉をかけ、全力をあげて』取り組むことを宣言している。
 すなわち理想的な国家をわれわれ国民が作り上げるということなのだ。
 様々な基本的な権利を保障するためにも我々国民が義務を負うことを言っているのだが、憲法前文でも明らかなように、それは我々国民の理想的な『国』造りへの義務といっていいと思う。
 そして、これも大事なことだが『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすること』と、政府を牽制することが強調されていることだ。
 これまで国際協調、外交、戦争と、行政執行で行うのは政府なのだが、そんな政府に対する釘押しともいえる言葉で、同じく憲法前文では、憲法の掲げる原理、目的に『反する一切の憲法、法令及び詔勅(しょうちょく=天皇が公に出す文書)を排除する』と宣言している。
だから、今の政府のようにアメリカの言いなりになって憲法9条の排除や改変をして戦争の準備をしたり、戦前の天皇制回帰の今の世相を戒めているということだ。」

 傍で胡坐をかきながら話を聞いていた隆俊おじさんは、右手に持ったグラスを左手に持ち直しソファーに座りなおした。
左に備えられたガラス張りの小型の丸いテーブルにグラスを置いて酒を継ぎ足し、背後ろにある本棚から何か本を探していたが、見当たらないのか頭をかしげている。
 小型の丸いガラス面のテーブルは、亡くなったおばさんが好んでいたもので、僕が遊びに来た時にはいつもそのテーブルにお菓子とコーヒーを置いてもてなしてくれた。
 懐かしいテーブルを眺めていると、隆俊おじさんが語りだした。
「日本国憲法は、押し付け憲法という人がいるが、平和を愛する世界中の人々が日本人の平和な国づくりを期待してプレゼントしてくれたと考えていいと思うよ。
 それまでの明治憲法、大日本帝国憲法とは別物と考えていい。
 特にこの個人を尊重する基本的権利、これは生存権をその出発として、各条文は国民すべてが頭に入れて咀嚼してもらいたいものばかりだ。
日本国憲法を知らなくても生きていけると思っているが、戦前に生まれて軍国主義の世の中で生活した人には、その違いはよくわかると思うよ。
特に『人権』と『権利』そして『自由』と言うことに関しては、実感するだろう。
 武志も文ちゃんもどうだ。手元に渡した憲法が載ってるレジメ、読んでみたか。」
 すると、文乃が話し出す。
「改めて読んでみると素晴らしい憲法ですね。
 おじさんの言っていた前文も、特に戦争を知っている人が平和のために私たちが何をしなければならないのかの思いが伝わってきますね。
 9条は、平和を求める国民として、『正義と秩序』という内実を検討したいけれど、国際社会、特に国際平和と国際主義の立場が強調されていると思うのね。
 だから『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』は、国の在り方としての戦争放棄、戦争をしないということが強く出ていますね。
そして、戦争をする陸海空軍の戦力を保持しないということで、国の交戦権を認めていないのね。
 国と国の問題で考えているので、国の内なる自衛権は否定していないのね。永久中立国のスイスのような自衛組織も、今の自衛隊のようなものでしょうね。
 第11条の『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。』そして『侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。』なんて、人類が求めてきた究極の自由と権利じゃないですか。しかもそれを第12条に書いてある。
日本国憲法って、素晴らしい憲法ですね。」

 安堂のおじさんは続ける。右手に酒茶碗を持ち、左手にはバタピーを握りしめて。
「1948年第三回国際連合会議で採択された『世界人権宣言』では第一条で『すべての人間は、生まれながらにして自由でありかつ尊厳と権利とについて平等である。
 人間は理性と良心とを授けられており、たがいに同胞の精神をもって行動しなければならない。」と書かれていて、第二条では『すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見』など、いかなる事由による差別をも受けることなく、すべての権利と自由を享有することができるとしている。
 これは、フランス・パリで開催された国際連合会議で『あらゆる人と国が達成しなければならない共通の基準』として採択されたものだ。
 この宣言は法的な拘束力はないが、悲惨な戦争を教訓として人類が作り上げる、当たりまえかつ理想的な宣言文なのだ。
 これは国際連合憲章にも書かれているように『人種、性、言語又は宗教による差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を尊重』することを約束するものとなっている。」
 僕のむらむらとした意地悪な気持ちが湧き上がってきた。
「権利や自由にしても、戦争放棄にしても、話を聞いていると理想的な憲法だけど、理想的過ぎて現実と乖離しているように思うんだけど。」
するとおじさんは、うなずくように僕の顔を見て話をつづけた。
「確かに理想的な憲法なんだ。ある意味では憲章や宣言ともとれる表現も多いが、人権や自由、国際平和は失われたものを回復すること、当たり前のこととして実現しなければならないことを謳っている。
つまり、我々国民一人一人が主権在民として理想的な国づくりをしていかなければならないと言うことなのだ。
 戦後、俺たちは学生運動と呼ばれる戦いを繰り広げたが、基本は俺たちが担っている国づくりと真逆の国を為政者が作っていることに対する抗議の戦いでもあったわけだ。
 だから最初に言ったように、憲法と乖離している事、矛盾しているように見えることが何なのか、それを憲法の精神に照らし合わせて考えるためにあえて憲法の話をしたんだ。武志は理解できたか。」

 また僕にお鉢が回ってきた。
 言っていることは良くわかるし、異論はない。ただ、今の僕の関心は憲法というよりおじさんの奥さん、隆俊おじさんの奥さんのことが頭にこびりついていた。
 さっき、おじさんが酒の入ったグラスを置いたガラステーブルで酒を継ぎ足していた素振りに、かっておじさんをお兄ちゃんと呼んでいたおばさんが、あのテーブルに置いたグラスにワインを継いでいた光景を思い出していたからだ。
 おじさんは嬉しそうに、そしておばさんは楽しそうに注いで二人で笑いながら話をしていた。
 あれは癌で入院する前だったのか、余命いくばくもない中で退院して家に戻って寝込んでいても、僕がここに来た時には二人であのガラスのテーブルで向かい合って話をしていた。
 あんな笑顔とホットな雰囲気は、目的をなくしてふらついていた僕にとって最高な環境だった。だからさっきおじさんが一人でグラスに酒を注いでいた姿に、僕は深い悲しみを感じてしまった。
 僕はトイレに行くと言ってその場を離れ、トイレからの戻り際に横の襖を軽く開けてみた。そこには、おばさんが病院を出て最期を家で看取ると言ったおじさんが買ったベットが置かれていた。おばさんの寝ていたベットには布団が敷かれ、その手前にもう一つの布団がたたんで置かれていた。
 おじさんは今でもおばさんの横で寝ているんだ。
 なぜか理由はないのだが、急に心が軽くなりホッとしたため息が漏れてしまった。自分の席に戻りガラスのテーブルを前に座っているおじさんを見直すと、どこからかおばさんが戻ってきておじさんに微笑みかけているような錯覚に陥ってしまった。
 僕がいて文乃がいて安堂のおじさんがいて、みんなでワイワイ言っているのを楽しんでいたおばさんは、話に熱くなっている隆俊おじさんのそばで声をかけているのだろう。寂しがり屋のおじさんだから、みんな集まって真面目腐って話をするのは心のどこかでおばさんに自慢したい、そんなつながりを僕は感じることが出来た。
 僕がおじさんのマンションに寄るのは、世話になったおじさんに会いに来るというより、優しかったおばさんの思い出に触れるために来ているのかもしれない。世間の風に馴染めない心の淵に、おばさんはいつも爽やぐ憩いを与えてくれた。
 だから今日も、文乃との大事な時間をここに置いて、おじさんたちの話を楽しく聞いていられるのだろう。ふと目を安堂のおじさんに移すと、茶碗に酒を継ぎ足しして一息ついている。
 話はどこまで言ったのだろうか。
「おじさん。腹減ったのだけど、飯にしない。」
 別にその場の話の流れに水を差すつもりではないが、僕自身の頭を整理するつもりと気分転換が必要だと勝手に考えて提案してみた。
「そうか、もう昼か。武志も文ちゃんも腹減ったか。
せっかくの二人の休みだから、おじさんたちの話に突き合わせては悪いかもな。」
 安堂のおじさんが珍しく僕たちに気を使ってくれた一言だったが、フミが付き加えた。
「おじさんの話は面白いし、憲法や社会の色々なことは関心があるのだけれど、仕事に入るとなかなかそこまで調べたりもできないし気も回らなくなるのね。こんな休みの時しかお話を聞く機会がないので、もう少し聞いていたいと思うのは勝手かしら。」
 安堂のおじさんは嬉しそうに応える。
「今話していることは、当たり前の事でも若い人と話すなんてなかなか出来ないことなんだ。お互い時間もないし、そんな機会もないし。ただ、若い人には聞いてもらいたい、知ってもらいたいという気持ちが強いので、思わず話進めてしまったが、そうだな、食事をしてからにしようか、今話した憲法なり、聞きたいことがあれば聴いてくれ。隆俊、お前も言いたいことがあれば簡単にまとめて話してあげれば。考えてみれば、このままでは二人の大事な時間を奪うことになりかねないからな。」
 おじさん二人に気を使われると、反対にこの場を離れるタイミングが難しくなる。
 僕も注がれて吞み進めている酒も効いてきているようだ。切りのいいところで家に帰り文乃と二人で寝ようと思う。
 昼飯は僕とフミはハンバーガー、おじさん二人は酒の肴に煮物と刺身と言うことでフミと二人で買いに出ることになった。おばさんが働いていた菓子店で、おばさんが作り好きだったケーキも買い足した。
外はヒヤッとした寒さが肌を刺す。体に回ったアルコールが歩く足の歩幅の数を間違えたかのように足が絡む。ふらつく僕の姿を見てフミが笑う。フミの顔も赤く火照っていた。
 冬まだ明けない真昼の太陽は、光っているだけで薄ら寒い。僕たちは駆け足で買い物を済ませ、おじさんのマンションに戻った。


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