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私は学校の先生です

いもうとへ

いつもありがとう。あなたとのやりとりはどれだけ私を勇気づけてくれるか。同じ環境で育ったものにしかわからない空気感。それを感じます。

さて、この世は補い合いながらできているということについて。自分のできないことを、誰かに補ってもらう。それを知っておくことは自分を救うと思う。1人の人間の力は大きく、小さい。そんな瞬間を感じながら生きていたいと思う。

ところで私は学校の先生です。笑。笑っちゃうけど。免許持ってて採用されて勤務してる、という事実は本当。学校の先生は、世間知らずだと言われるし、自分でもそう思う。だから企業でバリバリ働いている人の話を聞くと、小さくなってしまう。もう20年近くこの世界にいる。でも学校の先生ほど、めんどうな職業ってないんじゃないかと思うけれど、どうなんだろう?ナマモノを一気に相手するのよ?

長男の学校の、隣のクラスの先生の発言が衝撃だったと、そのクラスの友達のお母さんに聞きました。

「宿題は面倒くさいので出しません。」「男女の問題は面倒なことになるのでそういうことは起こらないようにします。」「いじめも、絶対起こさせません。」

なんと‼︎お母さんたちは、どう思ったんだろう??私は同業者としてスゴイな、と思った。いや肯定してるわけじゃなくて。何か策があったのだとしても、それを言えちゃう、先生の自己有用感‼︎自己効能感‼︎自己肯定感‼︎に。

これまでは、自己肯定感の構築こそ、人間の成長において大切だと思っていた。私は大切な存在だと知ること。それは人との関係性の中で生まれるものだから、ミルクをくれてオムツを代えてもらうという欲求を満たしてもらうところから始まっている。でも自己肯定感が低い生徒をたくさん見てきた。勉強になんて打ち込めない。評価されるのが怖くて、友達とうまくやれないのがストレスで、学校に来られない。犯罪に手を染めた子もいる。自分の良さは何?成長の過程で、何かが満たされず、暗にそれに引きずられている、と。

だから自己肯定感こそ大切だと思っていた。まずはその子の存在を、丸ごと肯定するところから始めたい。失敗もする。うまくいかないこともある。悪いところもあって当たり前。だから一緒に考えたい、と。

でも、最近自己肯定感という言葉に違和感を覚えるの。自己肯定感って、簡単に失うんだな、って。

あの子が亡くなった原因は自分の落ち度があったからだと、今も半分思っている。まだまだ生きられた命だったのに、って。昨日も苦しくて、泣いた。私の自己肯定感は長く失われているんだ。

けれど私は、最悪なことにはなっていない。それは何でだろうと思ったの。自己肯定感こそ大切なことだと思っていたのに、それが失われても、大丈夫だった。なぜ。

なぜなら、生きていく上でほんとうに大切なことに気づいたからだと思う。それは、

私は生きていること、と、生かされていること、を知ること。そして、生と死はひと続きであると知ること。

苦しい気持ちも悲しい気持ちも、風の気持ちよさも、太陽の明るさも、人間として生きていることを実感する。この自然の中に降り立って、自然や、人や、あらゆる生き物…動物や植物に生かされていることを知った。そして、死は恐れることでも忌み嫌うことでもなく、すぐそこにある自然の掟であることも知った。

子どもを失った悲しみとは別の軸が、ものすごく太くて強いそれが、自分の中にあるのを感じる。

先生やる上で1番大切なことをアップデートしました。どんなナマモノも、これで扱っていこうと。いつ復帰するのか、いつか復帰するのか、もわからないけれど。ただ今は、穴ぼこだらけの私は、生きていることを感じ、生かされていることに感謝して、根を張っています。明日死ぬかもしれないけれど。


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