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インドで経験したこと

ノートのおすすめに上がってくる記事を読んでいると、時々、これはと思う記事に遭遇しておもしろいです。

悟りの体験告白

先程、読んだのは、こちらの記事。

2年前に書かれた記事ですが、固定されていたので、トップにおいてありました。この方にとってとても大事な経験だったんだろうと思います。

ここで書かれている背骨が気持ち良くなる現象というのは、実は僕も経験したことがあります。

これを悟りと言っていいのかどうか、わかりませんが、たしかに稀有で貴重な体験ではあったのだろうと思います。このような経験は、個人にとっては人生をまったく変えてしまうような質を伴ったものになるということはあり得ると思います。

こういうテーマのことを考え始めると、決まって仙骨がぐつぐつと振動し始める感覚があるので、やはりこのようなジャンルの話というのは、僕にとってはたぶん大事なことなのでしょう。

インドでの体験

最初にそれが起こったのは、21歳の時、もう40年ほど前のことですが、インドのバラナシのガンガ沿いの安宿の屋上にいた時でした。

インドに入国して2ヶ月ほど経った時で、身体はずいぶん疲れていたと思います。痩せていた身体が、さらに痩せて、まるでヨーギみたいでした。

カルカッタからプーリー、ハイデラバード、オーランガバード、エローラ、アジャンタ、ラクノウを経て、バラナシに着いたのが、たぶん2月8日。

日本を出国したのが12月12日だったから、バラナシに着いたのは、ちょうど2ヶ月ほどの旅の後ということになります。インドでは慢性の下痢ということもあって、その頃にはかなり痩せていましたし、相応に体力も落ちていたと思います。

バラナシにて

バラナシのガート沿いの安宿に入ると、カルカッタとプーリーで同じ宿に泊まっていた日本人二人と、1ヶ月ぶりに再会しました。

プーリーで別れたあと、どこで何をしていたのか、お互いの近況を話し、彼らが習い始めたというシタールのグルジー(先生)のところに連れて行ってもらい、演奏を聴かせてもらったりもしました。

僕もハイデラバードでタブラを買って、練習を始めていたので、そこで一緒にタブラを習うという話になったのです。

その夜、ひさびさの再会を祝って、ガバメントのガンジャショップで買ってきたというガンジャを紙に巻いて、火をつけ、皆で回して吸いました。

カルカッタ、プーリーでは何度も一緒に良い時間を過ごしていたので、その夜も同じように素晴らしい時間を過ごせると思っていたのです。

ところが恐らく2ヶ月のインドの生活で疲労が蓄積していたためなのかも知れません。僕は初めてバッドトリップというものを経験しました。

肉体的にも、心臓の鼓動が速くなりすぎて、苦しくなり、このまま死ぬのかも知れないと思いました。

ドミトリーの自分のベッドに連れて行ってもらい、苦しい胸を抑えながら、ベッドに横たわり、長い長い夜を一人で過ごしたのです。

最近、南米のアヤワスカ体験のことを話す人がいらっしゃいますが、あのときの僕の状態はアヤワスカを飲んだときと同じような状態だったのではないかと言う気がします。

長い孤独な夜

気がつくと目の前の空間には大きな黒い穴があいていて、凄い勢いで吸い込まれそうだと思いました。吸い込まれたら帰ってこれないと思ったので、ベッドにしがみついて必死に抵抗していました。

その穴の中にいろんなものが見えたのですが、一番印象的だったのは、瓢箪のような、二つの球体がくっついたような、いわゆる円心(ヴェシカパイシス)のような立体でした。

とにかくその形がとても意味ありげに感じ印象に残りました。そしてその周りにはブッダやキリストやマホメットと思しき存在が漂うように回っているのを見ていました。

それを見ながら、ああ、彼らもまだあそこにいるんだと思ったのを覚えています。完全に向こうに行ってしまったのではなく、穴の入り口のところで待っているかのように、漂っていると思いました。

その後は、走馬灯のように、家族の顔や友達の顔、日本の風景を眺めながら、ただただ何も考えずに眺めていました。

そして、ハッと気がついたときには、窓の外が白み始めていました。窓からはガンガが見えましたが、少しずつ明るくなって対岸から朝日が昇り、やがて僕のおでこに太陽の光が射してきました。

その瞬間、もう死なないんだなと思ったんですね。生き延びることができたと思いました。朝日を見ていたら、とめどなく涙が溢れてきて、さめざめと泣きました。

超感覚的知覚!?

その日から、身体の感覚が変わっていました。背骨は快感に包まれていて、あまりに気持ちが良いので、そちらに意識を向けるといつまででも浸っていられます。これがサマーディーというやつなのかと思いました。

今から思えば、見え方が変わったということだったかも知れません。何かモノを見ても、そのモノの本質が手に取るようにわかる感じがしました。絵を見ると、絵を描いた人の心の内が全部わかるように感じました。

今までの自分とは全く違う自分になってしまったように感じましたが、その感覚はとても心地よく感じられました。今から思えば、それは反転した空間を体験していたと言えるのかも知れないと思います。

そのような意識状態は数日続き、やがてだんだんと普通に生活することもできるようになっていきました。

その後はそのままインド、ネパールを周り、タイを経て、日本に戻りましたが、インドでの体験はとても大きくて、それがその後、バリ島の踊りを始めることにつながっていきます。

踊りやらヨガやら仙道やら

その背骨が熱くなって、快感に包まれるというようなことが何なのかを知りたくて、ヨガであるとか、バリの踊りであるとか、仙道の小周天、大周天の練習とか、呼吸法とか、いろんなことをやり始めました。

社会生活という面では、かなり普通ではなかったかも知れません。踊りに打ち込むことで、なんとか自分が生きている意味を見出そうとしていたという感じかも知れないと思います。

踊りに取り組み、少しずつ踊れるようになっていくに従って、そういう身体感覚に振り回されなくなっていったのかも知れないなと今は思います。いわゆるエネルギーを扱えるようになるという感じかなとも思います。

その後、治療の仕事を始め、キネシオロジーの仕事を始めることで、残していた幼年期のトラウマを癒していくことができたことも、バランスが取れるようになっていった理由かも知れません。

そして極め付けは田んぼに入るという経験だったのかなと今になって思うんですね。

最初、田んぼに入ると身体が火照るという体験をしました。田んぼに入った日は、夜眠れなくなるくらい、体が火照り、それは背骨が気持ちいいという回路と繋がっていることを感じたのです。

踊りの稽古の日には眠れなくなるということもときにありましたが、それと同じような体験だったので、踊りの現場が田んぼに移っただけというくらいに僕の中では自然で、ずっと同じことをしているという感覚だったんですね。

ヌーソロジー

2015年の秋にヌーソロジーを知った時、夢中になって本を読みましたが、そこで見つけたのは、オコツトが半田さんに見せたという円心(ヴェシカパイシス)のイメージでした。それは、あの日インドで見たイメージと重なって見えて、とても驚きました。

そして、釈迦もキリストもψ7〜8(意識の段階みたいなものです)のところで、扉が開くのをずっと待っておられますとオコツトが語ったというところを読んで、あの日インドで見たイメージのことがあらためて蘇ったのでした。

ヌーソロジーでは、2013年に扉が開いたと言ってますから、今ならば、準備さえできていれば、すっとあちら側に行けるのかも知れません。

もっともそれは時間と空間のトリックを超えて、変換人型の視点を手に入れる必要があるわけです。そのために、ヌーソロジーは空間の仕組みを紐解いているわけですが、僕としてはどうしても40年前のインドで経験したことと、その後に経験した意識状態のことが忘れられず、こうして時々書きたくなったり、話したくなったりするんですよね。

今日は背骨が快感に包まれるということを書かれている方の文章を読んで、またそのスイッチが入ったというわけです。

このことについては過去に何度か文章化する試みをしていますが、だんだんとつかめてきてるようにも思います。このことを書くことで、この体験を整理することは、僕にとってとても大事な仕事だという感じがしているんですね。

天体の品位

占星術を勉強するようになって、エッセンシャルディグニティの計算方法なども学びました。それについてはここで書いています。

ほんと計算してみて驚いたのは、水星以外の9天体はすべてドミサイルを獲得していて、どれも品位が高いということでした。

特に月と金星と冥王星が14点でもっとも点数が高かったのですが、そういう敏感さの度合いが高いというようなところが、インドで経験したようなこととも関係してるのかも知れないと思いました。

僕のネイタルチャートでは、金星と冥王星は乙女座で合、そして、月は牡牛座にあって、トラインで結ばれています。こういうアスペクトを持っていると、五感を超えて、超絶の陶酔を味わうような経験をしてもおかしくないかもしれません。特に乙女座金星はフォールなので、やり過ぎ注意というのもあるかも知れません。

しかし、そういう感覚の敏感さは治療の仕事ではとても役に立ちましたし、踊りを踊るということに関しても、役に立っていたと思います。

品位が高いというのは、本当に双刃の剣で、下手すると人生終わってしまったかも知れないような、強烈な体験になってしまうということもあるのかも知れません。

月について

ここまで書いて、ああ、やっぱり月かと思いました。昨日書いた記事の中で書いたようなことです。↓これね。

未熟な月にとっては、扱いきれないようなエネルギーということもあるのかも知れません。月の欲求に駆られる時にも、普通より激しくなりますし、そのようなモードではいくらやっても満たされることはないということになるのかも知れません。

そのような月の強烈な欲求に駆られた時に必要なのは、そこから離れて、反対側のサインをやるということなのだということなんでしょうね。

僕の場合は、牡牛座ではなく、蠍座を意識的にやるということです。そうすることで、未熟な月に振り回されることはなくなっていくのでしょう。

そういう意味では、ヌーソロジーを勉強することも、占星術を勉強することも、心理学やキネシオロジーの勉強をしてきたことも、僕にとっては蠍座的なアプローチだったと言えるのかも知れません。

昨日も引用させてもらいましたが、まさにこれです。

月牡牛座:牡牛座と蠍座の要素が欠落する→蠍座を意識して、深くて真摯な人生の求道者的視点(哲学的視点)を持つこと。物理次元の事象や五感の感覚を超えた視点で真実を見抜く位置につくこと。本当の素のあなたは、成熟した深淵な精神を持つセクシーで深い魅力を讃えた人!
ユリシスさんの記事、
「月の欠損〜シンプルな捉え方」より引用


エネルギーが高まると悟りに似たような現象は起こりますが、それはゴールではないと思います。

その先に進むために何が必要なのか、本当は自分が知っているのでしょう。その方向も、その方法も、みなそれぞれに違います。各自、自分なりのやり方、筋道というのがあるのだろうと思います。そういうことが星を読むことで発見していけるという意味では、今とてもやりがいのあることをしているのだと思えて、うれしくなります。

僕は、そのために今このタイミングで占星術を勉強しているとも言えるし、こうやって毎日ノートに書くということをしています。

僕の怪しい経験も、ちゃんと消化して、文章化して、アウトプットして、それを持って10室に出るということが、今の僕の課題だと思います。たぶんその経験を必要としている人が待っているということなんだろうなと思うんですよね。

これはドラゴンヘッドが獅子座10室であり、乙女座16°のオランウータンをやるということですね。ヘッドが10室の人は、明かりを灯してちゃんと周りを照らさないといけませんし、オランウータンは魚座の経験を実利の世界に還元することができるはずです。

それがちゃんとできた時に、僕の場合は土星を満たせるようになるのかなと思ったりもします。山羊座の土星と牡牛座の月はオーブの緩いトラインなので、年齢とともに、経験を積むにつれて、少しずつ関係ができて、地に足がついていくかも知れません。

その時にようやく自分の人生に納得がいくのかも知れないなという思いもあります。

今はもう土星期を生きている自分です。2回のサタリタも超えて、3回目の土星が、太陽、天王星、Mcに対してオポジションでずっと睨まれていますから、今は本当に人生を振り返って、落とし前をつけなさいと言われてる感じなんですよね。この流れは2年前に田んぼをやめることになった時から、突きつけられているテーマだと思います。

本当に普通ではない経験をたくさんしてきたと思います。なかなか言葉にしにくいところもありますが、今日はがんばって書いてみました。

これもまた僕のエッセンスなわけですから、ちゃんと消化して、昇華させて、自分の星を生きていきたいと思います。

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