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ニ筆追えば、筆は選べず


私の名は、佐々木桐絵と云い。
本名である一部をもじり、桐絵と名乗っては、
名の売れない画家として細々ながら活動していた。
そんな私に転機が訪れたのは、そうあれは夏が始まろうとして、妙に蒸し蒸しとした暑さを覚えている。6月頃である。
彼の名は、東山すすムと云い、下の名前は他にない珍しい名前で、一度目にすれば、忘れられないインパクトがある。
彼との年齢の差は、35歳差。
私が26歳、そして彼は63歳である。
東山さん、いえ東山先生は画家歴が長く、メディア露出もあれば、デザイナーで、個展展開をすること売買した絵の数知れず。
ここ大阪北区では、顔の知れた人物であった。
「それでは先生。ヨロシクお願いします」
なんて言えば、先生は顔を赤くしブッきらぼうを、装って
「先生は恥ずかしいな」と否定した。
先生のアート作品は、異質であれ、
‘‘’普通‘‘‘の一般向けの絵もあれば、人の体それも女性を限定として、女体に絵を描く事を生業としていた。
先生が得意とする日本画を、女体で現す。正に圧巻としか言えない凄味が確かにあった。
そして私、桐絵は先生の芸術作品達の一部になりたいと、立候補したのが初めての出逢いである。
「まさか、僕の言う通り立候補してくれるなんて嬉しいよ。」
と先生は照れ臭そうに言えば、
先生は豆菓子をお出しした。
先生との出逢いは、正に絵を描くものにとっては、感動的なものであった。それと同じく1日にして私は、先生の愛人さんの1人になるには時間が掛からなかった、なぜなら先生の筆が私の体を走らせるのと、ほぼ一緒に行われたからである‥‥。

そんな先生との付き合いも凡そ3ヶ月。もう季節は夏を終えようとしていて、また生暖かいような変な気温差を感じていた。そして私は先生の絵筆をツマラナそうに、いえ本音は楽しいのですが、先生の小さな絵筆を手の上で転がしていたのです。右に左に上下にと。手のひら、腕と駆使できるものを使って、先生の大切で愛らしい筆を、精一杯に愛でていたのです。先生も先生で必死になって、自身の筆を信じて、奥に奥にと虚空に向かって、凡そ届かない事が解ってる所へ、筆を奔らせるのです。その必死そうでいて恍惚とした表情の先生に、私はクスりと笑ってしまい、先生は困った顔をしては、私にどうしたかと訊ねるのでした。
先生自身も自身の筆には、悩みの種を抱えているそうで、
歳も歳だが、この小さい筆は生まれつきなんだ。
すまないね。
なんて自虐的に言うものですから、桐絵もどかしいやら馬鹿馬鹿しさもあって、先生の筆をまた虐めてやるのです。きっと愛しさもあったのでしょう。
母が子である男児の包茎を気にかけるみたいに、
先生に自尊心を身に着けてほしい、そういった愛情的なものがあったのを、私自身、理解しておりました。
しかし当の桐絵は、正直に云うならば先生の筆で、満足致したことはなく、声で点呼するかのよう発声するのは、くすぐったさや、面白さ、肉体的な喜びでなく、精神的に先生に求められる嬉しさが、声を発っせさせたのです。
もし私が処女ならば、先生の筆が小さいなんて言わず先生の絵筆に、喜び乱れることでしょう。しかし私は、他の筆を知っていますし、掻き心地や滑らかさを知っているので、どうしても先生ばかり満足させてばかりで、私はその時だけ自身の快楽を忘れては、先生に従事し身を任せるのです。

しかし当たり前ですが、先生は歳を召しており幾ら愛人がいようとも、先生の絵筆は機能していないに等しく、インクも出なければ上手く筆が機能してくれないのです。かといいインクを補充する為に、自身に合わない青いインクを含んでは、息を上がらせ、吐き気と戦い、それでもインクは出なければ上手く起立して筆が立つ訳もない。そうして私は物悲しくなって、豆を恋しがり含ませ濯がせ、これじゃあ1人で筆を降ろすのと、変わりないと邪心するのです。
そうした時に、
先生を尊敬する気持ちと、
先生を情けないとする気持ちが、
私の中で苦しく葛藤してなりません。
以心伝心とでもいいます。先生は私の気持ちを察して、気を遣う。しかし気を遣われるほど、桐絵の葛藤が肥大化するのを嫌でも自覚するのでした。

先生は私の名を呼び
「桐絵、桐絵。君のハグが接吻が、僕は堪らなく好きだよ」
と私という紙面に、これでもかと接吻し筆を這わすのです。桐絵はくすぐったさ堪えて、返事をします。
「すすムさん。すすムさん。私も同じよ」
先生に言われたようにして、私は先生の下の名前を愛しげに口に含ませては、
先生のインク壺に吐き出すのです。

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