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マンションとパン:博士の普通の愛情・前編

僕の部屋は2階にある。窓を開けると桜の並木があり川が流れている。今もそうだが、春にはちょうど目の高さに満開の桜を見ることができるのが気に入って5年ほど住んでいる。2回の更新のタイミングで引っ越そうかとも思ったけど、やはりほかに勝る物件はなく、しばらくはここに住み続けるだろうと思っている。フリーのライターをしている僕は昼の11時くらいまで寝ていることが多い。窓の外から音質の悪いスピーカーから童謡が聞こえてきた。週に一度、いつもの時間だ。

下をのぞくと満開の桜越しに赤いクルマが停まっているのが見えた。移動パン屋だ。軽自動車の陳列棚にあるたくさんのパンはどれもお洒落なものではなく、昔ながらのピーナッツバターパンやコロッケサンドなどが並ぶ。財布を持ち、鍵を持ち、階段を降りてマンションの玄関を出ると、若い女性がパンの袋を持って戻ってくるところだった。クルマが走り去るのを、振り返る彼女と僕は見つめた。

「ちょうど今、行っちゃいましたよ」
「はい、遅かったです」

マンションの住人と話をするのはこれが初めてだった。誰が住んでいるのかなど考えたこともない。ときどき玄関で会った人と会釈をするくらいで、ほぼ会話はないのが東京スタイルなんだろうな、と5年前、越してきたばかりの僕は感じたものだ。

「もしよかったらたくさん買ったので、いりますか」
「いえ、悪いですよ」
「つい多く買ってしまうんです。全部食べたら太っちゃうから協力してください」

ビニール袋を開けてみせる彼女。僕はせっかくの申し出だからダイエットの手伝いをすることにした。

「どれでも好きなものを選んでください」
「どれがいいかな。あの、ここのクロワッサン、食べたことありますか」
「あります。そう聞くってことは何か言いたいことがありますよね」
「はい。あまり美味しくなかったんで」
「私も同じことを思いました。二度と買っていません」

ニコニコする彼女の横顔を見ていると幸福な気分になった。

「もう桜が満開ですね」
「はい。僕の部屋は2階の赤いTシャツが干してある、あそこなのでちょうど目の高さに桜が見えるんです」
「へえ、いいですね。私のところは9階だから、人間で言うと頭頂部っていうんですか、そこしか見えないのでつまらないです」
「もしよかったら、うちで桜を見ながらパンを食べませんか」
「本当ですか。じゃあ部屋に戻って、実家から送ってきた林檎ジュースを持ってきますね」

彼女に訛りはなかったが、青森あたりの出身だろうか。彼女はエレベーターに乗り、僕は階段を昇って部屋に帰る。大急ぎで汚い部屋を片付けていると、開けっぱなしにしておいたドアがコンコンコンとノックされるのが聞こえた。

「お待たせしました。これすごく美味しい林檎ジュースです」
「実家は青森なんですか」
「いえ、信州です」

長野じゃなくて信州か。いいなあ、そういう呼び方。桜の頭頂部、って表現も好きだ。彼女は白い大きな皿を二枚持って来ており、その上にビニールの包装を外してひとつずつパンを並べた。僕の部屋に女性がいることは数年ぶりで少し緊張したが、ビニールを丁寧に剥がす仕草や、それを紙袋にしまう指先の様子をボーッと眺める。僕はと言えば男の一人暮らしだから、ビニール袋の上でそのまま食べるのが日常だ。皿に載せるなんて考えたこともない。

「これ美味しいから飲んでみてください」

林檎ジュースの大きな瓶を数十秒くらい振ってから、グラスに注ぐ。口元に持っていっただけで強く甘い林檎の香りがした。

「本当だ。美味しい」

彼女はジュースを飲む前に両手を合わせ、いただきますと言う。

「ジャンケンで好きなのを取っていきましょうか」
「いいですね」
「川島さんは何が好きなんだろうなあ」

僕は名前を呼ばれたことにドキッとした。玄関の表札を見たんだろう。

「そう言えば名前を聞いていませんでした」
「ええと、香織です」
「いきなり下の名前で来ましたね」
「だって、私も河島なんです。字は違いますけど」
「ああ、そういうことか。じゃあ図々しいですけど、僕のことも真吾と呼んでください」
「わかりました。真吾さんは何が好きなんだろう」

僕らはジャンケンをして5つのパンを食べ終わった。ふたつずつ食べて、残りのひとつは「男なんだから」という、ジェンダーに厳しい現代には似つかわしくない理由で僕が卵サンドイッチを食べることになった。

「駅の裏のところ、大きなビルが建ちますよね」
「僕はあまりあっちのほうに行かないのでわからなかったけど」
「ああそうか。ここからだと川の向こうのビルが邪魔で見えないですもんね」
「そうか。9階かあ」
「次は私の部屋に来てくださいよ」
「またパンを買ってから集まりましょうか」
「いえ、下手でよければ料理を作りますよ。料理しないでしょ」

僕の部屋のキッチンには段ボールの空箱が山のように積まれていて、使っていないことがすぐにわかったはずだ。

続く(前編は無料)


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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。