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双子のベルナデッタ:博士の普通の愛情

僕は添乗員をしている。ここ数年は『例の状況』で稼働がなかったが、やっと以前と近い仕事量になってきた。とは言え、ドル・ユーロ高に加えて各国の物価上昇はとてつもなく、日本からの海外への観光客はまだそれほど多いとは言えない。

大勢の旅行客をまるで修学旅行での先生のように仕切っていた。実際のところ海外旅行に慣れていない高齢者に同行するというのは修学旅行どころではなく、幼稚園の遠足のようなものだと言ってもいい。旅慣れた人からしたら信じられないような出来事が朝から晩まで起きる。ホテルの部屋に鍵を置いたままドアをしめてしまったので開けてもらう、こんなのは我々添乗員にとっては「コンビニでコーヒーを買う」くらい当たり前の行動だった。

数年前の旅行で、Aさんという老婦人がいた。彼女はひとりで参加していたのだが、グループに馴染めず単独行動をする人だった。ヘルシンキの空港でトランジットをしていたとき、僕が確認するべきなのは「ちゃんと全員がゲートに入ったか」である。それほど時間がないと言ったにもかかわらず免税店でしつこく買い物をしていた数人のグループの背中を押すようにしてから、名簿をチェックする。これで全員だと思っていたら背後のトイレからAさんが出てきた。おかしい。彼女はしばらく前にEUへの入国ゲートを通過したはずなのだ。どうしてまだこちら側にいるのだろう。

聞いてみると、向こうのトイレが混んでいたので戻ってきたという。いや、ここは新宿伊勢丹ではないのだ。婦人服売り場のトイレが混んでいたから紳士服売り場のトイレに行くようなことは許されないんですよ、と説明したのだが意味はわかってくれなかった。どうやってゲートをくぐったのかは謎だったが、僕と一緒に入国しようとすると、Aさんはパスポートを持っていない。なくすと困るので向こう側に置いてきたのだという。それではゲートをくぐれないではないか。近くにいたグループに彼女のバッグを持って来てもらったが、中を見るとパスポートは入っていない。盗まれたのだろうか。だとしたら万事休すだ。7日間5ヶ国の旅という、過酷で緻密なスケジュールは一発で破綻する。

「Aさん、パスポートが売店の前に落ちてたわよ」

別の客がAさんのパスポートを高く掲げてのんきに走ってくるのを見て、みんなが拍手している。ここは北朝鮮の最高人民会議ではない。

というようなことは珍しくもなく、本当に日常茶飯事だ。



そのときの旅だったが、ローマの街でカフェにいた。皆が思い思いに観光をしている間、僕はいつものようにわかりやすい場所で待機していた。どうせなら奥の路地にある趣味のいいカフェに行きたいのだが、それだと何かトラブルがあってやってきた客が僕を見つけられない。だから僕は世界中どこの国に行っても「浅草雷門の真横にあるカフェ」のような場所にしかいることができない。

そのときは泣きそうな顔で戻って来る客もおらず、カフェでのんびりと過ごすことができた。カウンターの向かいのレモンイエローの壁に貼られたポスターがあった。酒の瓶を持って微笑んでいる女性と目が合った瞬間、僕は恋に落ちた。世の中にはこんなに美しい人がいるものなのか。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。