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インドで女性であることとは - 映画『タクシードライバーの私』(Where to, Miss?)を観て

偶然知ったところによると、この記事を公開予定の9月27日は1917年に日本で初めて女性が運転免許を取得した「女性ドライバーの日」なのだそうです。

さて、くしくもそんな日を前に、アジアのドキュメンタリー映画を専門に配信するアジアンドキュメンタリーズさんで『タクシードライバーの私』(Where to, Miss?)という作品を観ました。外で働き、夜、移動する女性たちの安全のためにタクシードライバーになりたいと願う女性デーヴキを追う作品です。

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デリーは危険なのか

インドの地方都市に暮らす私の知人家族は、女性のみならず男性たちも「デリーはこわいところだ」といいます。それはおそらく日本でも、東京から離れた地方の人たちが「東京はこわいところだ」と、「都会」に対してなんとなく抱く感覚と似ているのかもしれません。

一方、この作品の冒頭で入る「デリーはインドでもっとも危険な街」というナレーション。それは紛れもなくそこで暮らす女性たちが肌身に感じる「危険」であり、事件として大きく報道されることはなくても、日常のなかで女性が日々直面する確かな危険があるのだと思います。

作中、「あの事件」と何度か触れられるのは、2012年にデリーでバスに乗車した女性が襲われた集団レイプ事件のことです。ここでは詳細は書きませんが、この事件は多くの社会的な動きを生み、強姦の最高刑が死刑となったことは記憶に留めておきたいことのひとつです。また、Netflixオリジナルドラマ『デリー凶悪事件』はこの事件を元に制作されました。

外国人女性の特権

では私自身はどうかというと。

デリーには何度も行き、友人の家に数か月滞在したこともあります。15年ほど前までは、私自身が若かったこともあり、道ですれ違いざまに痴漢に遭ったり、じろじろと見られたり、からかわれたりすることはよくありました。

とても不愉快ではあったけれど、そこで危険を感じたことがあるかというと、あまり、ありません。いまは(旅行者にはおすすめしませんが)用事があれば夜ひとりで出かけることもありますし、タクシーにも乗ります。

なぜ危険を感じないのか。

考えられる理由は、もちろん行き先や帰りの車などを可能な限り考慮し手配しているからでもありますが、なによりもまず、私が外国人だからです。富豪ではありませんがそれなりの経済力を持ち、見た目の服装や持ち物も、話す英語も、いわば社会構造の「上のほう」を示しています。

何かあれば猛然と抗議しますし、警察を呼んで突き出すこともできます。そもそもが安全なエリアに滞在していますし、行動もその範囲内。いわば「社会的強者」という立場に守られている部分は大きいでしょう。

コールガールと間違われて

あるとき、ムンバイ滞在中に事情があり、ごく近距離ですが日付が変わってからの遅い時間に帰路につかねばならず、Uber Taxiに乗車しました。Uber TaxiはGPSで乗車中のルートが分かり、かつアプリに緊急ボタンがあり、万が一危険が生じたときはそのボタンを押して通報することができます(かつてUber Taxiで起きた強姦事件を受けて追加された機能です)。

行き先はアプリで入力済みなので、深夜の乗車でドライバーと言葉を交わすことはありません。ときどき陽気な人もいて、そんなときはすこしおしゃべりもしますが。

このときもドライバーと多少のやりとりがありました。私のヒンディー語がかなり怪しいのを耳ざとく聞きつけた彼は、私の素性を探り始めました。そして日本人だと伝えたら、鼻で笑うのです。

「嘘をつけ。ネパール人だろ? これから仕事か?」(こういうときは苦手なヒンディー語が妙に聞き取れてしまう不思議!)

行き先は滞在中の5つ星ホテル。もちろん自費で宿泊しているのですが、そこに「仕事」で向かう、つまりコールガールと思われたわけです。それらしき出立ちだったわけではありません。

私の顔立ちや雰囲気は確かに一見して日本人と分かることは少なく、インドにいると北東インドの少数民族かネパール人と思われるようです。ここで付け加えなければならないのは、彼らは、多くのマイノリティが世界中でそうであるように、インドではなにかと不当に扱われることが多いということです。

なぜ彼が「ネパール人」と決めつけたのかは分かりませんが、10分ほどの乗車のあいだ、彼は聞くに耐えない卑猥な言葉を私に浴びせ続けました。私は黙って受け流し、ホテルの車寄せに入った瞬間にドアを開けて飛び降り、出迎えた屈強なガードマンの陰に隠れ、その場でUber Taxiにクレームを入れました。

Uberはアメリカ発祥のサービスですが、そこはインド。クレーム対応はとても遅いか、通りいっぺんの謝罪でもあればいいほうだろうと思いつつ、なにも言わずに済ませることはできませんでした。

「以下のもの」によって保たれる自尊心

「差別」を考えるとき、私はいつも有吉佐和子さんの『非色』という小説を思い出します(やがてマサラ #19 大英帝国の七転び八起き でも触れているのでよろしかったら)。終盤の一節から。

金持ちは貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮らす人は昔の系図を広げて世間の成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだと言い、美人は不器量ものを憐れみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分を優れていると思いたいのではないか。それでなければ落ち着かない、それでなければ生きていけないのではないか。

一般的にいってインドではドライバーという職業は、憧れに憧れて好きでなる職業ではありません(例外はあるでしょうし変わっていくこともあるでしょう)。ムンバイのUber Taxiの車はインドのミドルクラス(=富裕層寄り)が好むとてもきれいな車でしたが、くだんのドライバーがオーナーというわけではなく、ボスから借りての営業だったと思います(昔ながらの三輪タクシーのオートリクシャーも自転車のサイクルリクシャーも、元締めの親方がいてレンタル料と売上の何割かを納めて営業していることが多い)

さほど裕福ではなくても幸せに暮らしている人はたくさんいると思いますが、日々搾取され、尊厳を奪われながら暮らしている人もたくさんいるのがインド。

50絡みのドライバー氏がどんな背景を持った人物なのか知る由もないけれど、見た目や話す言葉から、田舎で生計が立たなくて都会に働きにきているオジサンなのだろうと思いました。なにかがうまくいかなくて、自分より「以下のもの」として位置づけるネパール人コールガールを侮辱して、憂さを晴らしたかったのでしょう。

その境遇は理解できるとはいえ不愉快には違いなく、ふつふつと湧き上がる怒りとやりきれなさを持て余していたら、Uber Taxiのムンバイエリアの責任者からメールが届きました。クレームを入れてから20分後です。その素早さに驚きました。

いわく、ドライバーによる女性蔑視および人種差別には断固とした措置をとる、当該ドライバーは契約破棄、乗車料は全額返金する、と。

その後も経緯の詳細など何度かのやりとりをして、決してマニュアルだけではない心のこもった謝罪を受けました。私は一度たりとも自分が日本人だとは言いませんでした。もしかしたら名前から分かったのかもしれないし、国際問題や訴訟リスクを鑑みての対応だったとは思いますが、相手が誰であってもその毅然とした対応を変えないだろうと信じられたその責任者には、とても救われた思いがしました。

インドはどんどん変わっているし、正義を信じ、筋を通す人は、います。

ウーマン・エンパワーメント

インドの娯楽映画に「ウーマン・エンパワーメント」と呼ばれる、女性たちを後押しするテーマがこぞって描かれ始めたのは、2012年ごろからだと記憶しています(先駆けとして個人的にとても印象に残っているのは2006年の『Dor(邦題「運命の糸」)』、字幕はありませんが公式に無料で視聴できますのでよかったらご覧ください)。

サスペンスからヒューマンドラマまでテイストはそれぞれ違うのですが、どの作品にも共通するのは、女性が自分の意志を持って生きていく力強さが描かれていることかなと思います。

女神は二度微笑む(Kahaani / 2012)
コルカタで消息を経った夫を探しにイギリスから単身インドにわたり、失踪の謎を追う身重の女性を描いたサスペンス。終盤に登場する、コルカタのあるベンガル地方で信仰の篤い、憤怒の形相で悪魔(女性の苦しみ)を踏みつける女神ドゥルガーの祭りが迫力満点。

マダム・イン・ニューヨーク(English Vinglish / 2012)
夫にも子どもたちにも「ただの専業主婦」として扱われる女性が、親戚の結婚式のためニューヨークに渡り、こっそり英会話を習い始める。そこで出会ったさまざまな出自の生徒たちとの交流で、自分の価値を自ら認めていく。

クイーン 旅立つわたしのハネムーン(Queen / 2013)
突然の婚約破棄に傷つき、半ばヤケで単身ヨーロッパに向かうヒロイン。結婚こそが女の幸せという古典的な価値観を疑いもしなかった内気な彼女が、殻を破り自分の手で未来を切り拓いていこうと奮闘する。

Mardaani(2014)
ムンバイ警察の刑事の女性が、顔見知りの少女が行方不明になったことをきっかけに人身売買組織に立ち向かっていく。1998年のデビュー当時はどちらかというとセクシー担当という印象があった主演のラーニー・ムカルジーは年齢を重ねるにつれ知的な魅力を発揮していて、本作ではそれに加えて体当たりで圧倒される。ラストが衝撃的でした……。

Mom(2017)
娘をレイプされた母親が、傷ついた娘と向き合い、犯人たちを追い詰めていく。『マダム・イン・ニューヨーク』のシュリデーヴィーが演じるのは富裕層の母親で、一見か弱い彼女が驚くべき復讐を遂げていく。2018年に54歳の若さで急逝したシュリデーヴィーの実質上の遺作。紛うことなきシリアスものですがナワちゃん(ナワーズッディーン・シッディーキー)ファンはズッコけるかも。

ダンガル きっと、つよくなる(Dangal / 2016)
『きっと、うまくいく(3 idiots)』のアーミル・カーン主演。レスリングでオリンピックに出るという夢を娘ふたりに託した父親と、娘たちの物語。ベタベタなスポ根物語ではあるのですが、「レスリングなんかやらせたら嫁の貰い手がなくなってしまう」と嘆く母親に、「娘たちは誰かから選ばれるのではなく、自ら選ぶ存在になっていく」と言い切る父親がつよい……。以前書いたレビューはこちら

余談ですが、いい夫婦だなぁと思っていたアーミル・カーンとキラン・ラーオ、離婚してしまって。理由として囁かれているのがこの作品で娘役を演じた女優とのロマンス。ひとのことなので全然構わないのですけど、ちょっと「ああ…」となったのはほんとです。はい。

シークレット・スーパースター(Secret Superstar / 2017)
家庭内で圧政を敷く父に隠れ、歌手になりたいティーンエイジャーの娘が覆面歌手としてYoutubeに投稿した歌がバズり……。ひとつ前の『ダンガル きっと、つよくなる』で子ども時代の娘を演じたザイーラー・ワスィームがひたむきな少女を演じています。母親の扱われかたも、その母の娘より大胆な行動も、喝采を送りたくなる。以前書いたレビュー(でもないけどインド事情)はこちら

バーフバリ 王の凱旋(Baahubali 2: The Conclusion / 2017)
私のツアーのお客様には言わずと知れた超一級の娯楽大作ですが、これもウーマン・エンパワーメント枠に入れてもいいのかなと思います。我らが王の妃は「自らの道を選び、男性に属するのではなく、意志をもち自ら行動していくヒロイン」なので。ジャイホー! 熱量高めのレビューはこちら

有閑マダムの悲哀

さて、話があちこちに飛び肝心の本作の内容に辿り着きませんが、こういった背景を知りつつ鑑賞すると、静かに進行する本作に、ひと言では言い表せないさまざまな想いが湧いてきます。

本作の主人公デーヴキは富裕層の女性ではありませんが、かといって最貧層でもありません。インド女性の立場を考えるとき、階級や、お金持ちかそうでないかではないのだ、と思った一件があります。

私には、どんな巡り合わせか分かりませんが富裕層に属するインド人の知人が何人かいます。その中にひとり、忘れられないマダムがいます。

どのくらい裕福かというと、家は本宅と別荘が数軒、外国製の車数台にそれぞれドライバーがおり、キッチンにはシェフが数名、そのほか使用人もたくさん。夫は海外を含め会社を複数経営する実業家で、子どもたちはインターナショナルスクール通い。

出かけるときはピカピカの外車で、行き先は一着10万円からというようなサリーしか置いていない店や、数十万円の宝飾品のお店。銀行に預けているというデザイナーものの宝飾品をわざわざ自宅に取り寄せて見せてもらったこともありました。

見栄っ張りな人だなと思いながらも、あまり見てこなかった世界だったので興味深くお付き合いしながら、気づいたことがありました。

家事も育児も使用人が余るほどおり、彼女にはやることがないのです。慈善活動や文化芸術には興味がなく、おしゃべりの大半は、誰かの噂話と芸能界のゴシップ。

一代で財を築いた実業家の夫は、妻を家でごろごろさせておくのが甲斐性だと思っている人で、妻が外で働くなどもってのほか。かといってあまり勉強が好きではなかったという彼女に趣味らしいものはなく、ただただ毎日を退屈に溺れそうになっていました(私は格好の暇つぶし相手だったのでしょう)。

インターナショナルスクールで外の開かれた世界に接する子どもたちは母親は眼中になく、属する富裕層コミュニティでは本音で話せる友人はなく、たくさんの使用人に囲まれ、彼女は孤独な女性でした。

あるとき、彼女と連絡がとれなくなりました。知人を通じて分かったのは、精神的に不安定になった彼女がコミュニティ内でなにかのトラブルを起こしたため、携帯電話などの連絡手段をすべて断たれたということでした。

なんのために生きているのか、分からない。自分には価値なんてないように思う。

笑顔を浮かべ冗談めかしてそんなことを言っていたのが、何年か経ったいまも鮮やかに思い出されます。できることなら、元気でいてほしい。

痛みから生まれた知恵

自己憐憫はなにも生まない、と思います。人は自分をかわいそうと思った瞬間に、ほんとうにかわいそうな人になる、と思うのです。

インドにおける女性の立場を振り返りながら、では私が暮らす日本はどうなのだろうかと同時に考えます。

ひとりの女性として敬意を持ってではなく、非力な「お嬢ちゃん」と扱われることは、日本でもあります。女ひとりで子育てをし働いている私には、夫という男性の後ろ盾がないことで悔しい思いをすることはいまでも少なからずあります。

それでも、この立場だからこそ分かることもあり、私は決して自分を気の毒な人間だとは思いません。

本作の主人公が「タクシードライバーになりたい」という強い意志を持ち続けている姿には、世間的にはそれほど敬意を払われるわけではない職業にも関わらず、誰かの娘や妻や母ではなくひとりの人間としてプロフェッショナルでありたいという思いがあります。

"Where to, Miss?(お嬢さん、どちらへ?)"という原題は、タクシードライバーが客に尋ねる言葉であると同時に、この作品が観る者に投げかける問いでもあるように思えました。

もう一点、書いておかなければならない点としては、インドの中間層以上で充分な教育を受けた女性たちは、家事育児はメイドやナニー(子守)や両親に任せ、バリバリといかんなくその能力を発揮している人たちもたくさんいること。

もうあちこちで何度も述べていますが、私の外資系証券会社時代のインドの同僚女性たちがまさにそんな人たちでした。会社でも家でも分刻みで働き、いつも余裕のない私を尻目に、仕事に集中している彼女たちの有能さは目を見張るものがありました。

「あなたこの仕事量をこなしながら家事なんてやってるの? 信じられない!」とよく言われたものです。皆、子どもがいるお母さんたちでしたが、育児の大変な部分は人に任せ、一緒に遊んだりと子どもの情緒形成に重要な部分に余裕を持って接していて、それはそれは羨ましく思いました。

が、これもそのために安い賃金で使われる別の女性たちがいて成り立つ環境なので、「自前で全部やる私もエライ!」と自負していましたが、まあ、痩せ我慢は大いにあったかなと思います……。

結局なにが正解なのかはいまも分かりません。ひとつ言えるとしたら、バリキャリでも専業主婦でもタクシードライバーでもメイドでも、どんな生きかたであっても、本人が希望し夢見ることを誰からも咎められず、堂々と選び、自分を誇れる人生を歩めることが、その人にとっての幸せな人生なのではないかということです。

最後に、私が大好きな曲の一節をおいておきます。

"I am Woman" by Helen Reddy

Oh yes, I am wise
But it's wisdom born of pain
Yes, I've paid the price
But look how much I gained
If I have to, I can do anything 
I am strong 
I am invincible 
I am woman 

そう私は賢い
痛みから生まれた知恵がある
たくさんの代償を払った
でもまあ見てよ、どうなったか
必要ならば、なんだってできる
私は強くて無敵
I am Woman

出どころが"Sex and the City"というのはご愛嬌です(笑)。自分が威張れるか弱き存在としてではなく、女性を頼もしい同志として認める色男もこれまた素敵です☺️

アジアンドキュメンタリーズさん

本作についてあれこれおしゃべりしているアジアのドキュメンタリー映画を専門に配信するアジアンドキュメンタリーズさんではインド特集として14作品が見られます。別の記事にも詳細を記しましたのでよろしければ合わせてどうぞ。

トーク番組に出演しましたので、よろしかったらそちらも合わせてご覧いただければ幸いです!


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