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渇愛は集諦の一つ ルアンプー・プラモート師

ルアンプー・ドゥン師

渇愛が集諦(Samudaya)であるという

四聖諦を理解するのに

それほど長い時間は掛かりませんでした

師は心が外に向かっていくことが

集諦(じったい)にあると解っていました

心が外に向かっていくこととは

それが渇愛の下にあることであると

分かっていたのです

渇愛(タンハー)とは

心が飛び出すほどに渇望することです

欲しいというだけでは無いのです

心が”飛び出す程に渇望する”という言葉が付くのです

渇愛が生じる時

心は目•耳•鼻•舌•身体•心から飛び出し

見えるもの、聞こえるもの、匂いのあるもの

身体に触れるもの、心に触れるものを渇望し探すのです

これが「心が外に向かっていく」ということです

心が外に向かっていくとは

心が目•耳•鼻•舌•身体•心に触れる対象に耽る

ということなのです

それに浸り込む時には

 何がそれを駆り立てるのでしょうか

それは

渇愛(タンハー)が駆り立てているのです

ルアンプー・ドゥン師は

「心が飛び出すほどに渇望すること」

「心が外に向かっていくこと」を

集諦(Samudaya)と言ったのです

渇愛(タンハー)とは集諦(サムダヤ)のことなのです

心が様々な対象に駆り立てられ外に向かっていくとき

心は執着するのです

心は必死に働き

飾り立てられ

心に苦(ドゥッカ)が生じるのです

これは

もしも私たちが修習を続けていくのならば

自分自身に生じるその働きが

観えてくるのです

私達に渇愛や執着が生じた時

執着(ウパダーナ)とは

強い力を持った渇愛のことです

もしも

渇愛、執着が生じたのならば

それは

有を生じさせる縁(要因)となるのです

有とは飾り立てられる事であり

心が奮励(ふんれい)することなのです

善いことに飾り立てられ

悪いことに飾り立てられるのです

有とは

生の縁(要因)なです

生とは誕生する事です

誕生とは得る事です

目、耳、鼻、舌、身体、心を掴むことです

ですから

心が渇望し飛び出していくときには

飾り立てられる世界に耽り込んでいるのです

もしも中の物語に飾り立てられるのであれば

心はそれを掴み取ってくるのです

心がそれをつかみ取る時には

苦(ドゥッカ)が即座に生じるのです

仏歴2567年1月7日


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