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心に割り込むのは良くないこと ルアンポー・プラモート師

心に割り込んではいけませんよ

心には「考えて飾り付けられる」という役割があるのです

それを「飾り付けさせたままにしておく」のです

しかし私たちは”それ”を知る事に気づきを間に合わせるのですよ

自分自身が中に入り込んで飾り付けられてはいけません

「心が飾り付けられること」に気づきを間に合わせるのです

心は飾り付けられるものなのです

ただただそれを知るだけでよいのです

100人修行者がいれば

そのほとんどは

心を飾り付ける訓練をしてしまっているのです

心が考えると、考えない様にしてしまう

心が悪いことに飾り付けられると

飾り付けられない様に禁止してしまう

私達は頻繁に心に割り込んでしまっているのです

心は無我(アナッター)であると観える代わりに

上手に心に割り込んでしまうのです

心は我(アッター)であると

誤ったはまり込みをしてしまうのです

瞑想をする人で

白色が観える程に熟達した人は

心が静まります

そして

世間の物質が滅するのこともあるのです

身体も無くなり

世間も無くなり

思考も無くなり

静まり空白で

安楽になるのです

上達すると

この状態に長く居られるようになるのです

もしも死んだならば梵天になるのです

梵天はこのような状態が長く長く続いていくのです

しかし

このような状態に至っても

邪見(ミッチャー・ディッティ)が生じてしまうのです

それは

心は我(アッター)であり

私達の思い通りになるという

誤った見解が生じるのです

ですから

心が対象にぴったりとくっつき

静けさに留まっていることには

気を付けなければなりません

それは

邪見が大きく出てくる可能性があるからです

ある人は

禅定の4段階目の捨(ウペッカー)に入る人もいます

すると

心が滅するのです

何も感じないのです

残っているのは座っている固い身体だけなのであり

心が無いのです

これは心が第4禅定に入っている状態なのです

梵天に生まれたばかりの様な感覚になるのです

身体だけがあり、心が無いのです

それは業の力で心が無くなった状態で貼りつくのです

そして

生まれたばかりの梵天から

徐々に心を戻していくと

身体がある感覚

思考の感覚が生じてくるのです

しかし

その時から邪見が生じてくるのです

誤った観え方が生じてくるのです

それは

「あらゆるものは原因が無い」というものです

だまっていれば勝手に生じてくるというのです

初め私達の身体はありませんでした

しかし

心が生じて

そして

身体が生じるのです

ですから

私達が心に割り込むことは

良くないことなのです

ある場合は

何も残らずに、空になるほどの禅定に熟達すると

禅定から出て戻ってきた時に感覚が生じはじめ

まず最初に「わたし」という事を感じてしまうのです

その感覚が行き渡っていくのです

世間が観え

宇宙が観えるのです

そして

邪見が生じてしまうです

その邪見とは

自分は神であり

すべての起源だと観てしまうのです

ですから

私達の心を鍛える時

サマーディは重要です

しかし

誤った訓練をしてしまうと

苦(ドゥッカ)を乗り越えるという結果の代わりに

邪見(ミッチャーディッテイ)という結果になることもあるのです

仏歴2566年5月21日


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