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乗り合わせ生きる者たちの旅 『ある船頭の話』

はじめに

  切り立った岸辺の岩に座り小屋を構え、人を、物を、命を、死を、岸から岸へ渡す者がいる。カメラが彼の正面を映したのち、わたしたちは数分のあいだ彼が船に水をかけ磨く作業にしばし目を凝らしてみるのだが、彼が口を開きこちらへ親切に何かを語ることはない。だから、柄本明演じるこの者の名が「トイチ」であると知るには、壮麗な川と木々を映す映像と、遠く響く金属の衝突音やトイチを呼ぶ声にその場を譲り渡す控えめな音楽を用意するこの映画のなかで、どうやらその呼び声を、彼と共に「待つ」必要があるようなのである。すると、物語を語り聞かせることなく見せていく彼の姿は、自らを語ってくれる言葉を「待つ」数多の者たちの存在を重ねていくスクリーンそのものとして静かに佇んでいるように思われてくる。
 第76回ヴェネチア国際映画祭ヴェニス・デイズ(コンペティション)正式出品作、オダギリジョー監督初の長編作品『ある船頭の話』(2019年)。その名を監督として聞くことの驚き、熊本県球磨川市で長年船頭を務めていた求广川八郎くまがわはちろうさんからのインスピレーションを含む10年もの構想期間、キャスティングや製作陣の錚々たる顔ぶれなど、その話題性を挙げることは難しくない。そのはずなのだが、この映画に湛えられた静かな荒ぶりに近い何かを感じえた者はどれだけいただろうか。あるいは自覚か無自覚を問わず、それに気づくまいとした者はどれだけいただろうか。
 では、そういった者たちが懸命に目を逸らそうとしたものとは何か。職を奪われ、住処を追われ、命が危ぶまれた、おそらくは今日か明日かの自分自身の姿である。次いでこの映画が試みようとしていることとは何か。それは、そういった歴史の擦り傷として遺棄されようとする「持たざる者」たちが生きたことを決して忘れさせまいという強かな抗いである。
 この小文は、実のところ、近代資本主義経済における本源的蓄積の過程において、世界規模の移動と離散を強いられながら、日本そして世界の奔流に棹さす者たちの無数の生がそこここにあったはずだということを書くだけのものである。だが喜ばしいことに、たったそれだけの、しかし絶対に譲れない願いのため、素性も知らぬ誰かを労わり共に生き延びる場と時間とを待ち求める「小舟」として自らをも開いていくこの作品は、現代日本における映画表現に対する挑戦にまでその航路を広げている。ここでは、道中の「くにたち映画祭」という停泊地から「小舟」に乗り合わせた者として、そのありうべき旅路のひとつを書き留めてみたいと思う。

1.世界のどこかの日本で

 大正末期から昭和前期、日本のとある地方。正確な時代も場所も、そこで話されている言葉が「標準語」であることを鑑みてもどこまでも曖昧。映画は「イチノミヤ」という「村」か「町」かが「上」(かみ)の方にあるということだけしか分からない、深い山間の川辺からはじまる。寡黙な主人公トイチは、比較的流れが緩やかな川辺に居を構え、人や物を小舟で渡す船頭として生きている。

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 監督自身、あえて作品の舞台として土地や時代を指定しなかったと述べている通り、この曖昧さは物語のなかで徹底されている。どうにか分かるのは、「上」では対岸を繋ぐ大きな橋が建設中で、トイチ含むすべての登場人物がその橋をめぐる様々な引き裂かれを生きているということであり、多くの人々は完成を望みながらも、ゲンゾウ(村上虹郎)やニヘイ(永瀬正敏)といった幾人かはトイチの行く末を心配している様子である。だが、当のトイチは長らく自らの心境を吐露することもなく、呼ばれては渡し、また呼ばれるのを待つといった具合で、その心中は最後に至るまで朧げに示唆されるにとどまっている。
 映画の中頃には「上」の方から「おふう」(川島鈴遥)という女性が瀕死の状態で流れ着き、トイチはゲンゾウとともに彼女を手当するのだが、同じころ、船を利用する者たちの間では「イチノミヤ」で起きた事件についての話で持ちきりとなる。以降、トイチとおふうは共同生活を営むことになるが、事件と彼女との関連は不明なまま物語は進んでいく。終盤、ニヘイの父(細野晴臣)の死を通じて、トイチがようやく絞り出すよう語り始めるのは、彼自身一切を「持たざる者」であり、それでも誰かの役に立ってみたいといった切実な願いであった。

 静かである。しかしながら、この静けさは、トイチの姿をして語らしめる映像に語りを委ねることで、作品冒頭から既に多くをこちらに差し出している。川の流れに同期したカメラは、右から左へ、やや早い足取りで水面の次に岸辺や稜線をなぞる。これにより、ロケ地である新潟県阿賀町の川べりにあるやや平衡を欠いた小屋が、岩々が鋭く切り出し迂闊に手をつけば裂傷も避けられない過酷な地に設えてあることを示していく。

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 そのような岩に腰掛け、自らが食べる分の魚を釣るトイチの身体は、着衣の揺れでそれがようやく人のものであることに気づかされるほど風景に擬態するかのように輪郭が失効している。彼が船頭として櫂をとる時に被る竹笠然り、強烈な陽光への晒されのもと褪せた衣服は、濃い陰影として彼の消失を促すようでもある。水面に映る彼の姿は辛うじて肌の色を残すのみで、もはや正しく影そのものと言ってよい。
 こういった身体の溶解は、自然と人間の一致を称揚するものではない。むしろ、明暗の境界線が身体表面で絶えず揺れ動く瞬間への執着は、彼のように不明瞭な者を照らし出すため丹念に練られた構成と、撮影監督である名匠クリストファー・ドイルのカメラワークとのタッグが開示する、トイチが世界に飲み込まれようとする一瞬ごとの抗いの可視化なのではないか。
 手がかりに、衣装デザインを担当したワダエミの才が遺憾なく発揮された、登場人物の衣服に目を向けてみたい。トイチの船を利用する者のなかには、近代的な生活を送っているのだろう男性(伊原剛志)のシャツ、背広、世界商品のパナマ帽といった洋服が対照的に見出される。これらの装置は、彼らが組み込まれている世界規模の資本主義経済圏を明確に映し出す。
 船を利用するのは「町」の者だけではない。そこにはチンドン屋や猟師(マタギ)など、「村」との関係のなかで生きている者、「決まり」のもとで乗り合わせる荷物なども含まれている。すると、あの小船は、近代/前近代、「町」/「村」、実定法/「決まり」といった二項対立に振り分けられようとしている人々や事物が横断ないし往復し生きた世界の交差点である「/」そのもののようでもある。

 こういった経済や交通の問題は、通貨の扱われ方にもあらわれている。村の者とは物々交換をして暮らすトイチにとって通貨は、終盤に見られるような町医者(橋爪功)にかかる際の診察代に充てられているのではないかと推測できる。だが、冒頭でトイチを呼ぶ男性などは頻りに「遅い」などと悪態をつき、船賃五厘を船に投げ捨てることからも、それは暴力的に突きつけられもしている。ここで通貨は、彼が「町」の経済圏に組み込まれ命を繋いでいることを示しながら、子供から投げつけられる礫と同じく、常に彼の失職と追放を予告するものとしてもある。これを踏まえるなら、あの川辺は、「村」と「町」とがトイチの労働によって交通を可能にしながらトイチ当人の心身を摩耗させていく、搾取と収奪をめぐる地理的な突端だということができる。

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 それに、小舟は白鷺より遅く、魚より不器用に川を渡るのだから、トイチは自然とも等位ではない。彼はいかなる序列関係においても常に下にいる。このとき日本の「美しい」風景として提示されようとしていたはずの雄大な自然は、鋭い岩々のようにトイチを傷つけ呑み込もうとする、あらゆる暴力の具象化として立ちはだかってもいるのである。
 また、船上で老女(草笛光子)と「孤独」について話すなかで明かされる通り、トイチは何らかの理由で郷里を追われた逃亡者、すなわち避難民である。彼ら避難民は、常にコミュニティの縁や接線においてしか生きることを許されないし、帝国日本という国家の歴史のなかでは「汚辱に塗れた人々の生」(フーコー)として記録されるほかない存在である。

 このとき映画とは、幾重もの暴力に晒された避難民の歴史を、この接線を通じて切り出す彫刻のため選び取られた表現技法としてある。ゆえに『ある船頭の話』にまず見いだされるべきは、作中の橋という近代の光源に覆い隠された蛍の光のように、可視/不可視を問わず引かれた接線が交差する一瞬ごとの「歴史のきらめき」(ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』)といえる。この映画を通じて、わたしたちが目撃しているのは、そういった無名の者たちの生が明滅する歴史の到来にほかならない。

2.滲み出す生の谺

 本作は英題を They Say, "Nothing Stays the Same".(訳:「曰く、諸行無常」)と冠している。ここで「諸行無常」とは、町医者がトイチの船を初めて利用した際につぶやく一言である。
 では、こういった日本語から英語への翻訳を介して「諸行無常」を自称する映画において、この題名は誰のものなのだろうか。トイチが自らの生い立ちを語ることか、もしくは、おふうや町医者やニヘイがトイチについて語ることを指すのか。
 振り返ると、この映画では、トイチを「船頭」としか呼びかけることのできない者も多い。だとすると、トイチの生を綴ったはずの物語の題名『ある船頭の話』とは、彼自身が自らを語る言葉を持っていないことも含め、あらゆる人々がそのように証言を十全になしえないという限界を名指しているようにも思われないだろうか。

 この題名をめぐって映画は、そうした言語表現ではなく、今なお呼びかけられるべき名を「待つ」者たちの存在を、滲みを通じて予感させることを選ぶ。滲みが重要なのは、作中に文字がほぼ登場しないことともつながっている。滲みは、これまで文字化されてきた者たちの「正史」ではなく、記録しえなかった者たちの血の通った生を、権威的な唯一の名である題をも、塗り替え、書き換えていく領域侵犯的な運動性のなかにおいて開示する。この映画においては、題名は自身の権威をも放棄し、より大切なものの方へ自らを誘う祈りとなって、ただ一時その場を占めているに過ぎないのである。

 おふうの着衣や向こう岸に吊るされた旗の色は、題字の『ある船頭の話』に滲む血と想起させる。だからこうした連体詞「ある」への滲みは、トイチについてだけでなく、おふうについても語るよう促す。『ある船頭の話』とは、一者についての語り以上に、常にそれが複数人に開かれた物語として、誰かに話され、聞かれることを求めているのである。
 ところで、様々に配された滲みは、誰もが意図せざるかたちで他者と接触した痕跡を抱え生きる者であることも教えてくれている。口減らしで養子に出された過去を語る老女の裾をわずかに湿らせる船上の水もそうだ。互いに名も知らぬ誰かと誰かが一瞬でも共にいた時間を物質的に提示する仕掛けが、ここでいう滲みなのである。

 この滲みの効果をいっそう強くするのが音楽である。感情を強制する音楽を嫌う監督の意向通り、映画内では、アルメニアのピアニストであるティグラン・ハマシアンによる最小限の挿入歌が添えられており、特に「The Boatman」が印象的に彩を添えている。一定間隔でルートの単音ド(C)が繰り返されたあと、その隙間を縫って口笛や風音に似た音楽が主旋律として川面を滑り出す。これは短調ではあるから物寂しさを感じさせるが、それよりも、胸中の空洞を鳴らす何者かの通過を直ちに連想させる。こういった挿入歌の多くは、遠く響く橋の建設音やボイスオーバーといった映画技法への配慮のみならず、これを見聞きする者たちの心身が笛に似た楽器であり、何者かが通過していく「器」であることを理解させる演出となっている。
 トイチは「渡す」と同じか時にそれ以上に「待つ」者であり、物語を駆動させるのは彼を呼ぶ声などの音であった。すると「器」としての身体は、これまた「器」そのものである船で他者を送り出していく姿勢にも連なる重要なモチーフである。
 しかしながら、声や音は、常に優しく寄り添うものであるとは限らない。それどころか、自らを苛むようにして伽藍堂な身体に不気味に響き渡りさえする。多くの労働者が畳みかける「用済みだ、時代遅れだ」などと喧しくディレイする多声がそうである。トイチを呼び求めながら忌み嫌う者たちの声は、返りと深度を増しながら川辺という空間と強く共鳴し、トイチを刺し貫く力となり心身を蝕んでいく。

 このとき、多くの労働者自身も建設業という巨大な資本に吸引され、土地から引き剥がされた者たちであることは決して偶然ではない。船に一時乗り合わせる多くの者たちも、潜在的な(国内)難民であり、無惨に食い潰されていく搾取の只中を生きている。そこには、1920年代から増加したような、職を求め帝国内を移動せざるをえなかった旧植民地出身者(主に朝鮮人など)の姿も見られただろう。あの橋も、川も、岸も、そして船も、やはり正しく世界そのものなのである。
 そのような過程で知覚された近代とは、あらゆる人々にとって「用済みだ、時代遅れだ」といった内省抜きに考えられなかった経験に違いない。「橋ができれば村の者も喜ぶ」と躱すトイチに、労働者の男が「お前はどうなんだ」と詰め寄る場面も、男自身の内奥に響く脅迫の外部化である。だとすると『ある船頭の話』といった題名は、一方で、「お前」と詰め寄る二人称の暴力を拒否するための呼びかけ方にもなっているように思われる。この映画において、氾濫する声の数々は、こういった様々な暴力とも結び付けられているのである。

3.言葉を拭い去る水音

 音との対比において、この岸辺や水はどのように映されているか。早朝の川面に満ちる霧は、静謐に蓄えられた歴史を明示する仮初の皮膚となり、画面を大きく覆っている。すると『ある船頭の話』において、橋や罵声をめぐる音が聞こえない瞬間もまた多く収められていることは、音楽の意図的な挿入以上にきわめて重要に思われてくる。

 この映画では、合理性や事実追及などの言表行為は近代的価値観を内面化しようとしている者たちによってなされる。対してトイチは、おふうを助けながらも、彼女について表立って詮索するようなことはほとんどしない。この映画は、口を噤み、言い淀み、はぐらかすための言葉を、事件の周囲に配置している。
 こういった言葉の奥行きを多く抱え込む本作におけるキーパーソンは、少年のような亡霊だろう。彼は「おれはお前をずっと見てきた」と語ったり、どうやらおふうの生死についても詳しい様子。彼もまたトイチを「お前」と呼ぶ。

 亡霊はトイチによって幻視されるだけの存在である。だからなのだろうか、その雰囲気は民話的な妖怪や幽霊の類にもおさまりきらない。すると、彼は人々が近代と接触した際の混乱を投影した仮象ではないかと思われてくる。近代とは、ひと一人の能力を大きく超えた怪物にほかならないからである。彼は視覚的な存在以上に、やはり声そのものとしてトイチを呼びかけ続ける。
 たびたび現れ、一度はトイチと船に乗り合わせる亡霊は、おふうが死ぬべきであったところをトイチが救出したことで、世界に軋みが生じたという。この亡霊は、おふうの死といった映画内のこうあるべきだった時間の経過と、トイチの介入によって屈折した時間の双方を認識しうる超越者でもある。その彼を介してトイチは、”Nothing stays the same”=「諸行無常」といった時間に楔を打つ者として、歴史と対峙していることが明らかとなる。
 このときトイチは、自らの為しえたことを何者かに呼びかけられて気づく、自身の行動との時差を生きている。誰かを救助し互いに生きようとする願いや努力が、トイチ自身も知らぬうちに「正史」の側に滲み出していく。そうすると、この映画を通じて垣間見える歴史への抵抗とは、当人の意思や能力を超えて、全く予期せぬうちに可能になる、不意の力のあらわれであるようにも思われてくる。
 このような発話と行為との遅延やズレは、水中においても同様に大切である。おふうはトイチに船の漕ぎ方を教わるなか、突然川に飛び込むが、驚いたトイチは慌ててそのあとを追う。水底でトイチが目にしたのは、魚のように泳ぎ回るおふうの姿であった。近年であれば、ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)を想起せずにはいられないような、印象的な場面である。
 このとき水中は、発話の有無や出自すら問われない解放区である。音の方といえば、呼吸や身のこなしに一瞬遅れてついてまわる、動作の痕跡になっている。ちなみに、音は空気中(秒速334メートル)よりも水中の方が速い(秒速1500メートル)。すると、ここでは地上を基準にした音と映像、そして行為と意味といった、速度をめぐる従属的な関係も改められることとなる。このシーンで音と発話は必ず一致するわけではない。純粋な音だけが発話を追い越す。何かを問う声は水によって塞がれる。水中には、強制された意味の伝達ではなく、まず生きている身体の存在としての音が満ちているのである。

 この水中での音、声、意味、行為といったあらゆる解されは、トイチと亡霊との対話において、想像の水面に落とされる、おふう=花=血が魚へと変身する様式としても提示される。既存の人間のフォルムからも逃れていこうとする、こうしたおふうの姿は、輪郭を縁取り何かを強制する言語といった表面をそぎ落とすものとしても見出されていいように思われる。そうすると船は、そういった人々の身体や言語という枷をほぐす水へのアクセスを可能にする器でもあるのである。さらに言えば、この船は、いまだ人間とすら名指すことのかなわないような、歴史に埋もれた人々の生を豊かに語りなおすための、新たなる身体のひとつでもある。このようにして『ある船頭の話』は、既存の言語では説明し尽くせない歴史や言葉の数々を、あらゆるものへの滲みやズレを通じて今ここに届けてくれている。

4.映画という小舟

 オダギリジョー監督含む多くの人々が口を揃えて言う通り、文化事業への公的な援助も軒並み削減されるなか、インディペンデント系映画(いわゆる独立映画)は、いっそう厳しい局面に立たされている。映画そのものではないとはいえ、2019年に開催された「表現の不自由展」への猛烈な反発然り、右翼的言説が蔓延するなか「税金を使って国家を批判するのか」という頓珍漢な批判が、さも意味ありげに通用するのが日本社会である。このような直接的な言論弾圧を例に挙げるまでもなく、表現活動を通じて社会に抵抗の声をあげることがきわめて困難な時代に、わたしたちは生きている。
 そのような今にあって『ある船頭の話』という映画が大切なのは、私見だが、単に「開発や近代批判の内容が込められているから」というだけではないし、そうである必要もないと考えている。どうしても自然の賛美に流れやすい近代批判は、常々言われてきたように、失われた自然=日本の原風景の素晴らしさを持ち上げかねない。そのような郷愁の囲い込みにあって、「蛍の光」も、原曲「Auld Lang Syne」から感性への翻訳を経て、軍歌的な趣を帯びてしまう。ゆえに、ここで取り上げた「光」も、いかなる情緒からも徹底的に切断された物質的な発光に限定して用いている。
 それでもなおこの作品が注目されるべきは、映画と「小舟」とが本質的に近しいものであることを示しえた点にあるのではないか。五厘といった「二束三文」にしかならない船頭という職業と、資金繰りに苦しむ映画制作など、この作品は、常に映画表現に対する自己言及的な問題系を多く発信しているからである。そもそも映画内で登場するお金とは、映画それ自体のメタファーなのだから、トイチも監督の分身的な存在にも見えてくる(事実、監督自身で演じる計画もあったそうだ)。
 プロットに即して言えば、映画というメディアは、映像と音とを別に収録する。そのため両者は常にズレた時間を抱えており、それらを一致させる編集が必要である。ゆえに映画は、はからずも言語における音と文字、書記と能記などの繋がりを一時的にでもほどいてしまう。このように、『ある船頭の話』が映画それ自体をめぐるアレゴリーになっていることも鑑みれば、トイチと亡霊との邂逅は、作中における言語と行為との固い結びつきを、いつの間にか解き、映画そのものに対する異議申し立てとして改めて見られる必要もあるだろう。
 また、観る側にしてみても、映画とは、映画館に足を運ぶといった移動を伴う行為である。多くの場合それは、名も知らぬ誰かと数時間隣り合わせに共存する時間と空間を生み出すものでもある。だが、昨今のサブスクリプション的な配信は「個人視聴」を前提としているし、そこで見ることのできる作品のほとんどは利益を生むためのもので、これまでの映画体験そのものを変質させるものであるかもしれない。そういった諸々の現在的な映画のありようを憂うオダギリジョーに、西川美和が贈ったのが次のような言葉であった。

70年代半ば生まれの「乗り遅れ世代」特有のシニシズムのせいかもしれないが、もしかするとそれは、オダギリジョーという人が、映画というものの公共性や永続性について、かなり真面目に襟を正してきたからかもしれないと、『ある船頭の話』を観て思った。様々な映画の具現化を、俳優という一パートとして助けてきた立場だからこそ、あらゆる作り手が、あらゆる映画を作るべきなのだ、というすべての映画への平たい肯定論が根ざしているようにも思えるし、おそらく映画というものを、今もなお信じ、畏れているのだ。

引用:西川美和「オダギリジョーは小舟に乗っていた」『ある船頭の話』パンフレット、p.7

「公共性」「永続性」「あらゆる作り手」による「すべての映画への平たい肯定論」の「具現化」。この言葉の贈与において生まれているのは、映画とは誰もが安全に生きられるアジールを奪わせない実践なのだ、という誠実さの交感である。映画が映画であるために、誰かと共に作ること、誰かと共に見ること、誰かと共に何かを語り合うこと、あるいは社会の辛さに耐えられなくなったとき、ひとりで一瞬でも逃げることができる場所を確保すること、そういった文化的な配慮こそ映画の「公共性」なのではないか。
 新型コロナウイルス感染症拡大防止という名目に乗じて、多くの文化事業が停滞を強いられている。そのなかで「くにたち映画祭」が試みたのは、こういった映画の「公共性」の回復だったといえる。「まちじゅうが映画館」と銘打ったイベントは、文字通り町全体を映画が駆け巡る出来事であった。条例によって映画館をつくることもかなわない土地で、一瞬ごとに登場する急拵えの「映画館」は、トイチの生きる小屋や岸、なによりも「小舟」そのものである。映画を持ち寄り、場所を借り、人が集う、そのような実に素朴な営みが、法や条例によって規定された「こうあるべし」といった町の機能を、意味を、ありようを、書き換えていく。映画は町に染み込むことで、町のあり方を更新する。対して映画の方も、多くの人々の目の前に現れたことで、その都度経験し直されていく。とりわけ『ある船頭の話』と『はちどり』とを並べる固有の出来事は、橋の建設と崩落を介して新たなる解釈を呼び求めているように思われる。そういった求めは、「くにたち映画祭」が引き寄せた人々との、あるいは映画同士の出会い直しとなり、また多くの言葉を待ち望んでいるに違いない。
 トイチ、ト-イチ、十‐一、全体と部分、国家と個、全体性から個別具体性……「トイチ」とは、そういった言葉と言葉を渡す「はざま」や「あいだ」に浮かぶ、いまだ知りえない誰かを迎えに行く者の名である。彼の名前には意味がないのではない。名前は存在の占有の徴ではない。トイチとは、誰かに呼ばれては自らを開いていく、ありうべき人間の、さしあたりの名である。
 だから、呼ばれては渡すトイチの姿に、今日明日のわたしたち自身の姿を見てしまうのは、使い捨てられるがゆえの恐怖だけではない。誰かを招き、誰かを送り出す、あるいは誰かに匿ってもらう、ここには、そのように乗り合わせる命を生きていることへの気づきがある。その気づきを通じて自らを開いていく力への信頼は、止むことなくこの町に満ちている。


出典:オダギリジョー『ある船頭の話』2019年

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