結婚生活2.1 結婚をしなくても幸せになれるこの時代に、結婚し、そして続けるということ :破

その後の家の様子はというと、夫は、食事のほとんどを外で食べてくるようになり、その連絡をするしないも日ごろのいさかいの種だったこと、時間があるとふらりと散歩に出てしまう人だったこともあり、なんとなく家での役割分担も落ち着いた頃には、円満に、いわゆる家庭内別居のような形となった。副産物ではあるが、相手のスケジュールに振り回されないという大幅な家事の減少は、私の毎日を日常のわずらわしさから解放し、物理的にも開放された私は、あからさまに機嫌がよくなっていった。両親の不穏な関係を察知してか時折沈みがちに見えた娘も中学生となり、親にかまってほしい年ごろでもなく、週末はほぼ部活ということもあり、多少不自然な父と母の関係も、私の様子に安心したのか、いつもの明るさを取り戻してくれたようだった。

さあ、いよいよか。
しかし、扉の鍵が開いたからといって、実際に“出かける”のはそう簡単ではなかった。

鏡の中の自分は、すっかりお母さん然とし、確実に老いの影が見て取れ、このまま外には出る勇気が出ない。あっという間に終わってしまった30代を思うと強烈な後悔が押し寄せた。そして、そんな若さへの渇欲は、扉の外に出る前に美容皮膚科の門を叩くという安直な方法に飛びつかせた。

その数日後、いわゆるママ友の一人とおしゃれなレストランバーで食事の約束をしていた。彼女とは娘の小学校の入学式のとき、校門の前で写真を撮りましょうか?と声をかけてくれとことをきっかけに知り合い、その後沿線が同じとわかり、子ども同士を遊ばせる中で親しくなっていった。そのうち、子どもが成長するにつれ、大人だけのランチが増え、いつしかこうやってたまに夜お酒を酌み交わせる中となり、さぐりさぐりではあるが深めのプライベートについても話せるようになってきていた。

「なんか表情が明るくなったよね。きれになったと思うわ」やさしい彼女は、私がここ数年のもやもやに一応のけりをつけ、自分の身なり気を使いだしたす私の見映えの変化に気づいてくれた。彼女のことばが素直にうれしく、そして、ちょっと浮かれていた私は、笑いながら最近ボトックスとシミ取りレーザーもしてみたのよ、と友人に伝えた。

「今更そんなことまでして、きれいになってどうしたいの?」
予想外の反応だった。

そして、そのとき思い出したのが、大学時代所属サークルの後輩が発した一言だった。
「先輩ってそんな本読んでるんですね~」
(ちなみにそのとき部室で私が読んでいたのは、有名俳優の両親を持ち、現役慶応大生女優として活躍、卒業後すぐに郷ひろみと結婚して話題となった二谷友里恵の「愛される理由」だ。)

この二人はまったく同じ表情だった。
低俗なものを見せられ、あきれたような、がっかりしたような、なんとも言えない表情だった。

程なくして、扉の前で二の足を踏んでいた私の背中を押すように同窓会の案内がきた。そして、それこそ何処かで読んだことがあるような、そして私が期待していた通りの展開へ、するすると進んでいった。そして私は、やっぱり浮かれていたのだが、しかし、浮かれながら、時折、抜けなくなった極小のとげのように、ふいに友人のことばと表情が脳裏に浮かびチクりと痛んだ。

そのころ、本や雑誌に結婚やパートナーシップという単語を見つけると見境なく読んでいた。今振り返ると自分を“外から”正当化してくれるラベルを探していたように思う。
秘めて勝手にやれば誰も嫌な思いをさせないことを、夫に同意を求めたのも筋を通したいというのは言い訳で、“新スタイルの結婚”というラベルを張ることで、単なる浮気や不倫ではないと自分で思いたかったのかもしれない。

“奔放な女性”と思われてもいいが“だらしない女性”とは思われたくない。“自由に生きる母”はいいが“自分勝手な母”は嫌だ。“美容整形をする女”に不快感を示した友人は、品のよい薄化粧の目元に絶妙なエクステを施していた。下世話な話題本をバカにしていた後輩は、給与は高いが女性の昇進は難しいといわれていた男性に人気業界の企業に就職し、職場で夫をゲットした後さっさと辞めたと聞いた。きっと彼女達なりのアリ、ナシのラインがあるのだろう。

私は長年、女性がするセクシャルな会話、いわゆる下ネタと言われるものは全て一括りに“はしたない”と思われるとの思いがあり、口に出すのが怖かった。何が正しいのか、何がはずかしいのかも基準がわからず、正直に語ることが怖かった。性的なことに非常に興味はあるにもかかわらず、かなり仲の良い友人とも夫とも40歳を超えるまで、ずっとセックスについて会話ができなかった。とりわけ性欲の話はできなかった。

結婚後も夫にさえ長らく話せず、意を決して話そうとすると“さりげなく”避けられる中、誰にも教わる事もなかった秘め事としての性の問題はやはり秘めて置くべきなのか、どう処理すべきかわからなかった。そして、出口のないわたしの欲望はどんどん膨れ上がった。

“女性は、妻は、母はこうあるべき”

誰でもなく自分で勝手に積み上げた固定観念が防波堤となっていたが、とうとう決壊した。溢れ出した積年の欲望は相当の量となっていたのだろう。潜在意識が顕在化されたとき、色んな感情や説明をショートカットして一足飛びに“性交したい”となったのはそのせいではないかと想像する。しかし、想像でしかない。溢れた感情に言葉で理由をつけると、どこか嘘になる。言葉に出来ない感情を無視してきたからこそ、ここまで来てしまったのだから、もうこれでいいと思った。私はその時、性交したい。そう思ったのだ。

結婚とは何か?母親とは何か?女性とは何か?真剣に考えれば考えるほど、その深淵は底を見せてくれることはない。しかし、日々は流れていく。他者と協調し“社会”で生きていかなければならない。仮決めの答えを持たなくては進めない。疑問にぶつかるたび、それを解決しようとしていたら生活はついていかない。そして、ついわかりやすいラベルを選び考察もなく受け入れる。相手に都合のよいラベルで傷つけられたように、自分に都合よくはまっているときは、気づかないけれど、その思い込みで他の誰かを傷つけているかもしれない。どうすればいいのだろう?

・・・ギブアップ。

自分勝手に生きることを許してほしい。自分の感情を大切にあつかってやれるのは私しかいないのだから。そして他人の感情を大切にできるのは他人本人でしかない。夫もしかり。娘もしかりだ。
まわりからどう思われようとファックユーだ。私は幸せに生きたい。だから、心から、夫も娘もそして世界中のみんなも幸せに生きてほしい。そう思う自分にうそはないと、思っている。

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