その写真を見るときは
写真を見るとき、僕はなにを見ているんだろう?
そこに写されたものだろうか。
写されたものとして実際に存在した瞬間だろうか。
写された瞬間を含んだ物語だろうか。
多分、写真論みたいなものを読めばこういったことも書いてあるんだろう。僕は寡聞にして知らないので、自己流であれこれ考えている。
創作物を味わうとき、最初は作者の意図に引っ張られる。
作者はプロで、僕たちの五感を操る手法をたくさん知っている。
きっと、最初に目につくのは、彼らが意図した何かだろう。
それを離れるためには、注意力と時間が必要だと思う。
最初に見ていたものを自覚して、それとは違うものを見出す。
例えば、猫の写真を見ていたとしたら、その背景に目を移す。
そこには、本棚や、ソファなんかが置かれているかもしれない。
そうしたら、その撮られた空間を想像する。
きっとここはリビングだろう。あの猫は飼い猫なんだ。難しそうな本が並んでいるから頭のいい人が飼い主なんだろう。
そして、物語を生み出す。
どうしてその飼い主はこの猫を飼おうと思ったんだろう。もしかしたら独り身で寂しかったのかもしれない。この猫は今の家で幸せなのだろうか。そういえば、少しつまらなそうな顔をしている気がする。あまり飼い主に構ってもらってないのかもしれない。
最後に、物語から飛び出す。
どうしてこの写真は撮られたんだろう。この顔が可愛かったのかな。そもそも、この写真は誰が撮っているんだ。飼い主なのか。それとも写真家がたまたま遊びに来てたのか。
こんな風に、
作者の意図に乗る→撮られた世界を広げる→物語を創る→物語から飛び出す
僕はいつも、気に入った写真を見る時は、こんな感じで移ろいでいく。
簡単に言えば、撮られた写真を自分のものにしようとしている。
そのためには、これが「撮られたもの」だと自覚して、なぜ撮られたのか? と問うことが大切だと思う。
もう一つ大切なのは、「撮られなかったもの」にも思いを巡らせることだろう。
なぜ、猫なのか。飼い主と一緒でも良かったのではないか。猫だけを撮ることにどんな意図があったんだろう。
こんな風なことも考える。
写真に限らず、全ての創作物は作者の意図の結晶だ。
鑑賞者は、それをまず受け止めること。そして、それを越えて自分のものにすること。
こういった作者と鑑賞者とのコミュニケーションが、創作物を楽しむ醍醐味だと思う。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
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