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浴室の電球が切れた夜に

浴室の電球が切れた。
1日くらい暗いまま入ればいいんじゃないと言う私を無視し、夫が電球を買いに走った。でも、遅い時間だからコンビニくらいしかやっておらず、いつもの倍もする値段のものしかなかったからと手ぶらで帰って来た。

というわけで生まれて始めて、脱衣場の明かりがすりガラスからこぼれる、薄暗い風呂に入ることとなった。

私は強度の近眼で、いつもの明るさでさえ視界はぼんやりとしている。だから、電気付けずにちゃんと入れるのかと心配もしたが、全くの杞憂。この浴室に10年間ほぼ毎日入ってきた感覚をなめていた。シャンプーとコンディショナーの位置関係はたとえ見えずとも分かる。水温の調節も、冷たいと熱いを表す青と赤の区別さえできれば何となくの角度で大丈夫。真っ暗闇でなければ、だいたい、いける。そもそもぼんやりとしか見えておらず、だいたいの感覚でやっていたのだ。

それよりも、こういうのを怪我の功名というのか、このほの暗いバスタイム、ものすごく心地が良かったのである。

芸能人とかが「バスルームの電気を消してキャンドルを灯して入ってます」と言うのを聞いて、「シャレてんなー」と鼻白んでいた性格の悪い私だ。図らずも同じ状況になった。キャンドルを灯すなんてこっ恥ずかしくてできないが、キャンドル灯さずとも照明に煌煌と照らされないだけで、妙に落ち着くことを知ったのである。コンビニしか営業していない時間に電球が切れた、功名だった。

その後、ホームセンターで電球を買い浴室の明かりが無事復旧したあとも、私は照明を付けず、脱衣場からの漏れ明かりで毎日薄暗い風呂に入っている。もう、電気をつけて入るのは眩しくて落ち着かなくなってしまった。影を落として揺れる湯船に浸るのは、癒しだ。癒やしとは電気を消すだけで手に入るものなのかと、夜な夜な思う毎日なのである。

日常は刺激に満ちている。SNS、ネットニュース、テレビ、光、音、人間関係。それらを全部オフにしてはじめて、ああ、いつも何かしらの刺激を受け取りながら暮らしてるんだと、そんな当たり前のことを暗い浴室で思う。電球の切れた夜、私はまるで重力から解放されたような時間を見つけたのだ。


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