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国語のセンスを信じている

「面白い」は楽しい、滑稽だという意味でよく使われるが、興味深い、好ましい、一風変わっている、風流だという意味もある。興味をそそられるという意味の「あの人面白いよね」もあれば、変わった人というニュアンスを含んだ「あの人面白いよね」もある。好ましいという意味を打ち消して「面白くない結果」とも使う。言葉は様々な顔を持っているのだと国語教師のM先生は教えてくれた。黒板に書かれた「面白い」に突然、奥行きが現われた。
自分のなかで何かが動いた瞬間を覚えていることは少ないが、言葉への興味が一気に膨らんだその日のことを私ははっきりと覚えている。

M先生は、中学2年生のときの担任が病気療養で休職していた間の代理の担任でもあった。妊娠中だったM先生はそのあと産休に入ることになっていたから、さらなる担任代理にバトンタッチするまでの2、3ヶ月の間だ。そんな短い時間だけどみんなと思い出を作りたいと、毎日『レ・ミゼラブル』を少しずつ読み聞かせてくれた。先生との時間は不思議と忘れがたいことが多いのだが、読み聞かせもその一つで、私はその時間が大好きだった。

おおらかでフレンドリー、いつも笑顔のイメージの先生が、静かに、だけど厳しい口調で「分かっているけど言葉にできないというのは、本当は分かっていないということだよ」と言ったことも忘れられない。授業中に当てられた生徒が「分かっているけど言葉にできない」と言い訳のように答えたときだった。今になっても例えば言い表せないようなことがあると、ふと蘇るのだ。

産休を間近に控えた先生が、バッサリと髪を切ってきた日のこともよく覚えている。「出産直後はお風呂に入れないらしいから」という、まさにバッサリと言うにふさわしい突然のショート。出産というものの大変さを物語っているようで、インパクトが強かったのだと思う。自分が妊娠中のときもずっと頭の片隅にあった。

そんなわけで覚えているのは教師っぽいことばかりではないのだが、でもやっぱり何よりも私に響いたのは、国語の教師らしさ溢れるメッセージだった。

国語の授業で、吹き出しの部分が空白になっている4コマ漫画に自分でセリフを考えていれるという課題があった。セリフを書き入れて提出した4コマ漫画に、先生は最後にコメントを添えて返してくれたのだが、そこにはセリフの内容を褒めると共に「国語のセンスがあると思います」と採点用の赤ペンで書かれていた。

それは14歳の私にとって変化球気味のメッセージだった。「国語のセンス」とは一体どういうものか。でも、とくかく、ただただ嬉しかった。私のことを見てくれていて、認めてくれた。そしてそれを言葉で伝えてくれた。他の先生よりも特別に感じていたM先生がである。優等生だったけれど上手くいかないと思うことの方が多かった。そんな思春期ど真ん中で私は、そのメッセージに、確かに大きな力をもらったのだ。

読み聞かせてくれていた『レ・ミゼラブル』は結局ラストまで聞けずに、先生は産休に入ってしまった。続きは気になったのだが結局自分では読まず、私はあの物語を途中までしか知らない。そのかわり、情感たっぷりに読んでくれたドラマティックな展開がそのままに、先生の声と共に今でも蘇る。主人公の行く末は、知らないままでもいいかと思っている。

例えば理科は科学的な視点から、数学では数字を通して、社会なら歴史という観点から世界の見方を教えてくれたのだとすれば、M先生は言葉という世界の入り口があることを教えてくれた。「面白い」で知った言葉の奥深さは、今でも私を魅了し続けている。そして私は「国語のセンス」を信じて、今も文章を書いているのかもしれない。

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