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抜けたのかな

中編について、とりあえずの推敲ができました。
くらいトンネルからは抜けたのかな。

理解して欲しかった人に理解してもらえたかどうかは別として、ですが。



今回は11月から書き始めてずっと苦しかった。
このままの状態で書き続けたらどうなるんだろうという苦しさ。
それなのに続きを書きたいから、隙間からそっと覗くような日々。

中学の頃、水泳部にいたからか、たいてい、感覚がみずのなかの感覚に変換される。
プールまわりのコンクリはちゃんと足の裏が熱く感じるくらいの日、青い空の下、水のなかは目を開ければはっきり水色の壁面、床が見える、光の屈折や揺らぎがきれい。

なぜか今回は息継ぎを我慢していて、脳に酸素がいかない、水の重みや温度や透明さを肌で感じながら、視線の先は透き通らなくなっていく、硬さだけを感じてもう沈みそう。
遠くまで見えない、そろそろ気を失ってしまう。


それには理由がある。
11月の小説家講座に提出したテキストについて、角田先生に言われたことがとても強く残っていて。
「繊細な感受性で繊細なことを描くのであれば、繊細な文章ではダメだと思います。かっちりとした文章で書いたほうが、その繊細な内容、繊細な感情がうまく出てくると思います」

わたしはその時点から文章を書くことが、恐る恐る、になった。
尊敬する方の言葉は向き合わずにはいられない。
毎日、すこしずつ、上司の顔色を盗みみるような感じで文章を書いた。

いつの間にか呼吸をとめていて、沈みそうになっていた。
繊細な感受性、繊細な感情、文章が繊細?
そもそも繊細とは。

noteに一番にアップしたショート・ショート(掌編?)は、繊細と思われそうな部分を消して潰して書いたもの。
不安定さや比喩……とにかくすべて除いたつもり。


今回の中編もそんなふうに進めた。
たぶん私は私らしいと言われるものをひっこめて書いた。
わたしがした過去の醜いこと、きっと誰にも理解されないことも書いてみた。


かっちり書いたつもり、それなのに伝わるようには書けてない。
そのことについてだいじな指摘をもらったけど、深く考えられずにいて
感謝もたりないくらいしか言えてない。

それどころか、いまの短編では自分を開放している。
自分全開で良くない傾向だとは理解していながら。



そう、
もうひとつ、井上荒野先生のことばもかなり強く残っている。
「文学って、感情と感情の隙間を書くものだと思うんですけど、その隙間は本当に捉えづらいです。だけど、それを捉えようとする努力を、言葉によってしてほしいんですよね。小説を勉強中の方は、これは文学だからってそこを曖昧なままにして、なんとなくちょっと当たりのいい言葉でかっこよく書いちゃうことが多い」

この言葉すごいなって。
すごくてすごいなって反芻しまくってる。



ほんと、繊細ってなんだろうな。
感情と感情の隙間ってどんなだろう。
未知だから、書いてるのかな。


好きなものは好き!!!

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