あんせむ
『あと、半年。』縦読みver.です。 各記事、1番下の画像を開き、右へ順にスワイプしてお読みください。
あれから一晩をオフィスで過ごし、次の日には家に帰ることができた。さらに翌日はちょうど休みだった。今週は保乃と出かけてみようかな。いや、絶対出かけよう。昨日感じた嫌な空気を払拭しておきたい。 「ただいま…」 「あー!おかえり〜!」 保乃はソファから立ち上がって、俺を出迎えに来てくれた。靴を脱ぐ俺に、「ん」と両手を広げて待っている。俺は靴を脱いで、保乃の胸に飛び込んだ。 「はぁ〜…」 保乃の腕の中で力が抜けていく。保乃の柔らかな感触に、このまま溶け込んでなくなってし
「ああクソ…こんなの終わらねえよ…」 山積みのファイルの隙間からスマホを探し出す。照明がほとんど落とされたオフィスに、ぼうっと明るい画面が浮かぶ。22時40分。今日も帰れないだろう。 大学を卒業し、就職して3年目。任される仕事も増えた。ここ最近は繁忙期で、彼女との時間はおろか、ろくな食事すらとれていない。それでも、大切な彼女のためと思ってなんとか毎日生きている。 「あ…」 俺は溜まった通知に気づいた。 『保乃: 通知13件』 「んー…なんだ」 『今日
6月。 今日は久しぶりに、人と会う約束をしている。 靴の紐を締めて、彼女に向いて別れを言う。 「いってきます」 すっかり梅雨も明けて、じりじりと夏らしい陽が顔を覗かせるようになった。今日も高く青い空に、白い雲がぽつぽつ。やや暑い日差しが心地よい日だった。 「久しぶり〜、元気してた?」 彼女は、森田ひかる。玲の親友だった。玲がいなくなってから、何も手につかなくなった俺を助けてくれたのが彼女だった。 「久しぶり…まあね、おかげさまで」 今日は彼女のほ
1月。 新たな年に浮かれた街の空気がしんと消え、ピンと張った空気が肌に痛い日だった。 「玲」 俺が手を握ると、彼女は辛そうな顔を笑顔で誤魔化しながら、こっちを向いた。 「ん……」 彼女は指で俺の手の甲を触って、手を握り返してきた。 「寂しくなかった…?」 「大丈夫…」 彼女は微笑んで言う。 「これ…こないだの写真」 俺は河原で撮った写真をポケットから取り出し、彼女に渡した。 「ありがと……やった〜…」 彼女はゆっくりとそれを受け取
12月。 緩和治療のおかげもあって、彼女はあれから思いのほか元気に過ごしていた。体調が良い日には外出もできた。俺は毎晩彼女に会いに行き、日中も時間を見つけては彼女のところへ通った。休みの日は泊まり込み、朝から晩まで一日中一緒に過ごした。なにより、彼女といられる時間を1秒も逃したくなかった。 「今日天気いいなー」 「うん、気持ちい〜…」 病院近くの川沿いの遊歩道を歩く。つんと冷たく乾いた寒空に、冬の黄色い日差しが暖かい。小春日和、と小学校の先生が言ってたっけ。
11月。 差し込む朝日の光で目を覚ました。 「おはよ…」 彼女の前髪を優しく分ける。 「…んん……」 彼女は目を閉じたまま眉を顰める。彼女は顔色が悪く、辛そうな顔をしていた。 「………痛い…?」 「……」 枕に顔を伏せて彼女は頷いた。俺は彼女の頭をそっと撫でる。 「…じゃあ、今日はお家にいよっか…?」 今日は隣の県の温泉に行く予定だった。宿もとってあるし、いろいろ行く場所の目星もつけてある。 「ん……」 嫌だと言うように、彼女は首を横に振る。
10月。 そこかしこの山が鮮やかに色づき始める頃。2人で少しだけフェリーに乗って、小旅行に来た。 「ついた〜」 フェリー乗り場を軽やかに歩きながら彼女が言う。 「あ!鹿!かわい〜」 鹿と戯れる彼女を見て、俺はカメラを構えた。パシャリとシャッターを切る。 「かーわいい……」 俺は撮った写真を見てつい呟いた。 「えへへ…私が?」 彼女が口元を覆って照れたように聞く。 「んー…?いや、鹿が」 「え〜?鹿に負けたの〜?」 彼女は不満そうに頰を膨らませた。
9月。 晩夏とはいえ、まだまだ暑い。道ゆく人は浴衣に甚平、汗の滲んだTシャツ。やはり花火大会は賑やかだ。 「まだ花火大会あったんだな」 「ほかにもあったけど、どこも今日が今年ラストらしいよ?」 白い花柄の浴衣に身を包んだ彼女が、俺の手を握ったままこちらを見上げる。 「そりゃラッキー」 ベビーカステラの甘い匂いに、すれ違う人の持つビールの匂い。少し遠くから聞こえるお囃子と客寄せの大きな声、屋台の裏手の発電機の音。お祭り独特の雰囲気に、だんだんと酔わされていくよう
あと半年。 「…だから、今のうちにいっぱいやりたいことしたいなーって思って」 「……」 俺は彼女の目を見て頷くのがやっとだった。その時は蝉が騒がしく鳴いていたはずなのに、何も聞こえなかったような気がする。俺は自分の奥歯を噛み砕くくらいに噛み締めたまま、彼女の手首を強く、優しく握っていた。 「えへへ…」 あと、半年。 8月。 灼けるようだった浜辺も、陽が落ちて薄暗くなった。砂は心地よい暖かさだけを残し、波は薄くなった夕日をチラチラと映すだけ。 「き